「おい、島村君」
正岡が、ぼんやりと窓外を眺めている島村に声をかけてきた。
「今日の相手は、川端理事長のひとり娘の葉子さんだが、プロ棋士になりたいと言って、理事長を困らせている。国立大学の医学部に合格間違いなしという才媛なのに、本人は医者よりプロ棋士になると言って聞かないらしい」
「へえ、そうですか」
島村は、一瞬沈黙し、少々驚いたような表情になっている。
「こんなことを君に聞くのもなんだが、どう思う」
川端は、厚生労働省の外郭団体で医療事務を扱う機関の理事長である。京阪神はもちろん、近畿一円の病院などの事務手続きや医療器具設置をチェックする権限を有している。このため医薬品や医療機器メーカーなどは、医療機関への自社製品の納入や契約について、川端理事長の承認を得るためにかなり神経を使わされる。
正岡は、医療機器メーカーの社長で、関西中心にビジネスを展開していることから、川端理事長の機嫌を損ねるわけにはいかない。大っぴらにはできないが、機会があるごとに理事長に謝礼を包み、家族の旅行や買い物の代金などを肩代わりしてきた。
若い島村には、そうした事情のすべてを理解することはできないにしても、理事長と正岡の関係はうすうす承知している。
「女流棋士ですか。お医者さんになる方が、いいと思いますけどねえ。僕が言うのも変ですが、そんな立派な家庭にありながら、敢えてリスクの高いプロ棋士を選ぶのは、少々不安な気がします」
「そうだろ。理事長は、近々医療法人を立ち上げて、病院と介護施設の経営に乗り出そうとしているんだ。将来は、その院長に葉子さんをと考えるのは当然なんだよなあ」
正岡は、島村の意見に大きく頷いた。
「だから、理事長は君と対局させて、プロの厳しさを教えよういという腹づもりらしい。囲碁を諦めて、医者にならせようという、まあ、親心なんだろう」
島村は、黙って正岡の話を聞いている。
正岡が、川端理事長と懇意になれたのは、ビジネスの関係よりも、囲碁という趣味が一致したからだった。正岡が指導を受けていた棋士が、理事長グループの指導をしていた棋士の師匠格だったことで、数年前、関西棋院主催のパーティで、お互いに紹介されて親しくなった。ともにアマチュア3段の免状を持っているが、贔屓目にみても、かなり甘い判定だと陰口をたたかれている。いずれにしても、正岡は川端理事長から何かにつけて便宜を受けることができるようになったのは、囲碁の好敵手だったことが要因だろう。
島村の師匠は、生来病弱だったことと、そう裕福でもなかったため、正岡を指導していた棋士に島村の面倒を見るように頼んだ。それが五年前のことである。正岡は、初対面で島村を気に入り、以後、生活費や学費を援助してくれたお陰で、大学も無事に卒業することができたのだった。
「理事長は、葉子さんが君に勝ったら、三年間の猶予つきで、院生になることを認め、その間に入段できたらプロ棋士になっても構わないと。しかし、負けたら大学に進学して、医者になると約束させたそうだ」
正岡は、島村の顔を見ずに、白髪を手でかきあげながら固い口調でそう言った。
「そんな大事なことを、一局の碁で決めるんですか」
「うむ。葉子さんはまだ高校生だが、しっかりした娘さんだ。君のこともよく知っていて、理事長からこの話を聞かされたとき、喜んでOKしたらしい」
島村は困惑した表情になる。正岡から聞かされていたのは「大事な取引先のお嬢さんと、新春囲碁対局をして欲しい」ということだったので気軽に応じたのだが、対局相手が川端理事長のひとり娘だとは今の今まで知らなかった。
「理事長が、手合い割を三子か四子ぐらいでどうだと尋ねたら、葉子さんは二子でお願いしたいと答えたそうだよ」
ここまで話して、正岡はやっと笑顔を見せた。