コラム

「遅れて来た革命家 大隈重信   第5話」

明治十四年の政変で政府を追われた大隈重信は、民主政治と教育が今後の日本を支える柱だと考え、立憲改進党の結成と東京専門学校(早稲田大学)創立に力を注いだ。

一方、黒田清隆は大隈に外相として入閣を要請し、条約改正交渉を委ねた。だがこれは失敗し、大隈自身もテロに遭って右脚を失ってしまう。

だが大隈はこれで終わらなかった。どんな激しい政治闘争の渦中にあっても、大隈はいつも陽気でカラリとしていた。かつて自分を追い落とした伊藤とも平然と交際を続けていたし、自分の右脚を奪った犯人のことは、大した男だと評価していたくらいだ。傷が癒えた大隈は、第一回総選挙のために走り回った。大隈は心から仕事が好きだった。とくに政治は生きがいだった。

結果は定員三百名のうち、条約改正交渉の影響で立憲改進党は四十一名にとどまったが、自由党系の諸派が百三十名の当選者を出した。民権派全体では、過半数を占めたのだ。

これは民権派が団結すれば、政府は法案を通せないことを意味していた。このため、初代内閣総理大臣になった伊藤博文も、議会運営には常に悩まされた。

ここにおいて明治時代の権力闘争は、士族による武力蜂起、国会開設を求める自由民権運動に続き、議会での政治闘争の段階へと移ったのである。

そんな中で、大隈にも再びチャンスが巡ってきた。薩摩の松方正義が政権運営への協力を求めてきたのだ。松方は一貫して大隈の積極財政に反対を続けていた。その松方が歩み寄ったのは、当時の政府の窮状を示すものだろう。

この結果、松方首相、大隈外相のコンビによる松隈(しょうわい)内閣が成立した。だがこれは結局、同床異夢に終わった。松方は藩閥の利益を背負っていたし、大隈の配下には尾崎行雄、犬養毅らそうそうたる人物がおり、安易に妥協はできなかった。

松隈内閣は一年余りで瓦解するが、その後を襲った第三次伊藤内閣にも妙手はなかった。第五回総選挙で、またもや民権派が圧勝したからである。

ここにおいて伊藤は、民権派に政権を委ねる決断をした。こうして立憲改進党の大隈が首相、自由党の板垣が内相に就任して、隈板(わいはん)内閣が成立した。

これは日本初の政党内閣だったが、同時に当時の政党の未熟さと限界を露わにもした。もともとライバル関係にある二つの政党が、政権奪取のために手を組んだだけなので、目的を達するや否や、いがみ合いを始めたのである。隈板内閣の寿命は、僅か四か月しかなかった。ろくに仕事も出来ないまま、大隈は退陣せざるを得なかった。

大隈はすでに齢(よわい)六十に達していた。当時の感覚では老人である。大隈は党の代表から身を引き、政治から距離を置いた。

この時早稲田大学は創立二十五年を迎え、福沢の慶應義塾と肩を並べる総合大学となっていた。大隈は推されて、その総長の座に就いた。大隈は学生たちと接し、彼らの前で演説することを好んだ。

大隈はこれまでも教育には熱心で、同志社大学と日本女子大学の設立には、多大な援助を惜しまなかった。だが、自ら創立した学校の総長となるのは、感無量だっただろう。

以後の大隈は、もっぱら文化活動に力を注いだ。白瀬中尉の南極探検にあたって、自ら後援会長に就任し、寄付集めに奔走したのはその一例である。

全国への旅行も楽しみ、各地で演説会を行った。訪問先で政財界の大物が集まったのは当然だが、庶民にも愛された。とくに駅に停車した列車で短時間行う車窓演説は有名で、行く先々で大勢の人たちがホームに溢れた。

出版事業にも熱心だった。雑誌『新日本』の創刊をはじめ、『開国五十年史』『国民読本』『大隈候昔日譚』など数多くの著作、編著を出版した。もっとも大隈自身は筆を執らず、もっぱら口述するか、原稿を依頼して編集したのだった。

大隈はこれらの活動をひっくるめて、「文明運動」と呼んでいた。幕末に長崎で英語を学んだ大隈にとって、進んだ欧米文明を日本に取り入れることが、終生のテーマだったのだ。

その間政界では、政党の力を無視できなくなった伊藤博文が、政友会を結成して議会の主導権を握ろうとしていた。その伊藤も日露戦争の勝利後、ハルビンで暗殺された。その頃には維新の元勲たちが次々と世を去り、政党全盛の時代が到来していた。そして明治が終わり、大正になった。

仕事好きなのは相変わらずだったが、大隈はもはや悠々自適の生活だった。ところがそこへ突然、組閣の依頼が届いた。政友会を与党とした山本権兵衛内閣が、ドイツのシーメンス商会との汚職事件が原因で倒れたからである。

古い仲間の井上馨に説得されて、大隈は出馬を決意した。外務加藤高明、司法尾崎行雄、大蔵若槻礼次郎ら、改進党系が名を連ねた内閣で、大衆もこれを歓迎した。

もっとも、二年半に及んだ第二次大隈内閣が、その期待に応えたかは疑問だ。折しも第一次世界大戦が勃発し、日英同盟を理由に参戦した日本は、アジアのドイツ植民地を難なく攻略した。さらに中国には、強欲な二十一か条の要求を突き付けて、これを飲ませた。

大隈は欧米との協調主義者だったが、陸軍の強硬派に引きずられた加藤外相を制御できなかったのである。さらに大隈は、陸軍の二個師団増設、海軍の建艦費増額の要求にも応じた。その様子を見て、世論の支持は離れていった。そこへ大浦内相の議員買収事件が発覚して、内閣は瓦解した。

大隈が没したのは、大正十一(一九二二)年である。その葬儀は日本初の国民葬として行われた。早稲田の大隈邸から日比谷公園さらに護国寺までの沿道には、百万人を超える人々が集まり、幕末から大正デモクラシーまで駆け抜けたこの政治家を見送った。

大隈の業績は評価が難しい。政治、教育、文化の各分野において、時代のトップを走ったとまではいえないが、彼ほどの幅広い活動をした者もいないからだ。

だがその中で最大の業績は、やはり早稲田大学だろう。教育とは人から人へバトンをつないでいく営みである。バトンを受けた走者が走り続けている限り、最初の一歩を印した大隈の名も不滅であろう。

(終)