コラム

「誠実は人を裏切らない 早川徳次   第5話」

関東大震災ですべてを失った早川徳次は、日本初の国産ラジオの製造に成功して、不死鳥の如く蘇った。しかしそこを狙いすましたように日本文具からの悪辣な請求があり、すでに履行済みの二万円の債務をもう一度支払わざるを得なくなった。

しかしその試練をくぐりぬけ、徳次も会社も大きく成長した。昭和七(一九三二)年、全国のラジオ聴取者は百万人を超えた。増産に次ぐ増産で、従業員も二百余名となった。海外への輸出も、中国、東南アジア、中近東、ヨーロッパから南米にまで広がっていった。

昭和十(一九三五)年には組織を株式会社化した。資本金三十万円は相次ぐ増資で七十万円になった。第二工場も建設し、工場の総敷地面積三〇四二坪、建物九六二坪、従業員は五六四名に増えていた。

一方、泥沼の日中戦争が始まり、国内は急速に戦時色を強めていった。そんな中、ラジオは庶民にとってささやかな娯楽であり、また戦地のニュースを知るのに欠かせない存在だった。国家総動員法が制定され統制経済の時代に入ったが、ラジオは軍隊にも必要だったから、軍の保護を受けて工場では増産が続いていた。

そんな中、シャープの技術力の高さを示すエピソードがある。海軍の航空無線機の受注である。東京の兵器会社が五年かかったところを五か月で試作品を納入し、二か月でベルトコンベア方式の大工場を建設して、当時としては画期的な量産体制を築いたのだ。

しかし、敗戦とともに深刻な不況がやって来た。事業規模は、資本金八百三十万円、従業員四千人にまで膨れ上がっていた。軍からの受注がなくなったため、それを整理しなければならない。そこへドッジラインという金融引き締め政策による不況がやって来た。さらに民間放送開始に伴い、将来の新型ラジオへの切替えが予告されたため、旧型がまったく売れなくなってしまった。

この二重苦、三重苦の中で、同業他社が次々と倒産していった。シャープも売上が半減した。借入金は一年で五倍に膨れ上がり、瞬く間に億を超えた。遊休施設や不動産など、売れるモノはすべて売却した。徳次個人の不動産も抵当に入れた。従業員も五百八十八名まで減っていた。しかし、どれだけ頑張っても売上が増えず、資金は容赦なく流れ出していく。

ついに瀬戸際まで追い詰められた。銀行は支援の条件として、さらなる人員削減を要求した。決断を迫られた徳次は、ついに覚悟を決めた。

(ウチはいままで家族経営でやってきた。ここまで成長できたのも、従業員のおかげだ。それなのに彼らのクビを切って、自分だけが生き残るわけにはいかない……)

 ところが、事情を察した従業員たちの方が動き出した。

(このままじゃダメだ。何とかして会社を守ろう!でないと、全員共倒れだぞ)

 従業員の有志がひそかに集まり、会合を重ねた。その結果、二百十名が退職に合意した。さらに役員全員が会社の債務を個人保証し、所有する会社の株を担保に入れた。徳次への忠誠心だけではなかったかもしれない。だが彼らに、自分の身を犠牲にしてもこの会社を残したい、という強い思いがあったのは事実だった。

 会社側の再建策を受けて、メインバンク三行が追加融資に応じた。そこで一息ついたところへ朝鮮戦争が勃発し、特需によって日本経済全体が息を吹き返した。戦争終了後、ラジオの民間放送が始まり、新型の受信機が飛ぶように売れ出した。

昭和二十八(一九五三)年二月、NHKによるテレビの本放送が始まった。同年八月には、日本テレビが初の民間放送を開始した。

戦前からテレビ受信機の研究を続けてきたシャープは、国産第一号となる白黒テレビを開発に成功した。これが市場を席巻し、一時は業界全体の売上の六割をシャープ製が占めた。最初から個人向けの十四インチに絞って量産体制を築いたことも功を奏した。

こうしてシャープは再び危機を乗りこえて、後の世界企業への道を歩み出したのである。

 

過酷な家庭環境から努力と創意工夫で身を立てた早川徳次は、人生の節目で多くの人の縁に恵まれ助けられた。徳次はそれを決して忘れなかった。

 徳次にとって最大の恩人である坂田芳松親方は、妻に先立たれ寂しい晩年を送っていた。徳次はそれを説得して大阪の自宅に引き取った。献身的に世話をし、最後を看取り、盛大な社葬を行ってその恩に報いた。だが、継母の壮絶ないじめから徳次を救い出し、親方の許に連れて行ってくれた盲目の女行者井上さんは、関東大震災の後行方知れずになっていた。

 戦争で失明した軍人に工場での作業を教えて雇用した特選工場は、日中戦争のさなかに始まった。戦後は合資会社として独立させ、三十名以上の従業員を数えるまでになった。

「幼い私の手を引いてくれた、あの時の井上さんの手の温かさは忘れられない」と、生涯語り続けた徳次である。特選工場の経営は、井上さんへの恩返しの意味があったのだろう。

 それに対して育徳園保育所は、震災で失った幼い二人の愛児への思いだっただろうか。徳次は自ら園長となり、多忙の合間を縫って園を訪れた。ニコニコして幼児たちにお菓子を配る姿は、まったくの好々爺だった。

 徳次は社長室に、高さ十五センチほどのアルミの小箱を置いた。それには「ニコニコ函(ばこ)」と書かれていた。講演料や原稿料など、社業以外の収入をすべて、それに入れるのである。やがて社長室に出入りする重役や来客もそれを見倣うようになり、小箱はいつも皆の善意で溢れるようになった。それがまとまった額になると、福祉事業に寄付するのだった。

 もちろん、それらを売名行為だと見る人もいるだろう。もちろん徳次も商売人だから、そういう気持ちがまったくなかったとはいえないかもしれない。

だが徳次は晩年にこう語っている。

「考えてみれば人生は借りだらけではないだろうか。よほど返しても返してもまた借りができる。これを返すのが奉仕だと私は思っている」

早川徳次が成功者として、人生のよき晩年をおくれたのは、このような考えで積み重ねた徳のためだっただろう。そしてそのような生き方を学ぶことは、現代の若者たちにとっても大きな意味のあることだと、筆者は信じるのである。

(終)