幼くして養子に出された徳次は継母から虐待を受けるが、盲目の女行者井上さんに救われ、九歳の時に金属加工の職人坂田芳松の許で奉公をした。十六歳の時に主人が慣れない鉛筆製造に手を出して失敗し奉公人も四散するが、徳次はあえて留まって創意工夫で店を支えた。
ある時、地金の仕入れに使うカネが五円どうしても足りなかった。それを見た徳次は、コツコツ貯金したカネから五円を下ろして、手紙と一緒に主人の枕の下に入れておいた、それを読んだ主人は非常に喜び、「金五円は確かに預かった」旨の証文を書いて徳次に渡した。そして会う人ごとにこのことを吹聴した。
十七歳の時に、七年七か月勤めあげた年季が明けた。朝食の膳には尾頭付きの魚と杯があり、主人から羽織が贈られた。これは当時の慣習で、羽織を着るのは大人の証しなのである。お礼奉公の一年は月給制になり、徳次は初めて五円の給料を貰った。それが明けるともう一人前の職人で、今でいえば請負制の関係である。
親方の坂田氏は典型的な職人肌で、商売っ気はあまりなかった。ある時、宮沢式という水道のねじの製造を頼まれたが、細工が複雑だといって断ってしまった。それを聞いた徳次は、親方の了解を得て、個人で下請けをすることにした。
こうして仕事は順調だったが、どうしても気になるのは自分のルーツだった。出野家の実子だとはとても思えないのである。徳次はひそかに調べ、やがて自分が養子であること、実の両親がすでに亡くなっていることを知った。兄や姉たちがいることも分かり、まもなく再会を果たした。とくにすぐ上の兄の政治は、その後の徳次の事業のよき理解者となった。一切の事情を知った徳次は、出野家から籍を抜き、旧姓の早川を名乗ることにした。
徳次が独立したのは十九歳の時である。そのきっかけは、徳尾錠という発明だった。これはベルトのバックルで、穴がなく、ベルトの先が垂れないように長さが調節できる仕組みになっていた。徳次はこの特許を取り、見本を知人の巻島氏に預けておいた。すると、いきなり三十グロスの注文が来たのである。
一グロスが十二ダースなので、およそ四千個を超える注文だ。それに加えて、宮沢式の水道のねじの仕事もあった。もはや坂田の仕事と両立できる量ではない。徳次は悩んだ末に独立の意志を伝えると、親方は泣いて喜んでくれた。足かけ十年同じ家に起居し、寝食を共にしたのだから、徳次にとっても肉親同様で特別な感慨があった。
独立に当たって、先立つものが必要だった。巻島氏は例の五円の話をよく知っていたから、徳次を信用して四十円の資金を用立ててくれた。親方は以前に預かった五円を餞別代りに返してくれた。それとささやかな貯金を合わせて、何とか五十円になった。
そのカネで、旧主の坂田氏と巻島氏と同じ本所区に家を借りた。六畳一間で家賃は一か月三円三十銭、敷金が六円だった。造作なしだったので、古畳四枚を四円八十銭で買い、残り二畳は床板のままにしておいた。ここが作業場である。
さらに古障子四枚四円。残りは所帯道具だ。布団三円五十銭、戸棚と机がわりのビール箱が二つで十銭、茶碗小鉢類が一円五十銭、米七升二合が一円、味噌醤油五十銭、雑貨が二十銭で、合計二十四円九十銭だった。残りはほとんど店の材料設備費に消えた。
こうして徳次はがむしゃらに働きだした。仕事は早朝四時半に始めた。朝食までに一日の計費を稼ぎ出す心算である。さらに夜なべもやり、作業をしまうのが晩の十時だ。しかしそこから営業回りや事務仕事があり、就寝は十二時を過ぎる。実際、徳尾錠と宮沢式水道のねじだけでも、一人ではさばき切れない量だった。そこで独立早々から、二人の使用人を雇うことにした。おかげでまもなく、巻島氏に四十円を返済することができた。
もっとも、徳尾錠は三十グロスの後さらに二十グロスの注文があったが、やがて勢いは止まってしまった。当時は和装が中心で洋服を着る人はまだ少なかったから、これはやむを得ないことだった。
そこで徳次は、これまでの宮沢式のねじを改良して部品を減らし、巻島式として売り出した。従来のものが取りつけに三十分かかるところが一分ですんだので、たちまち市場を席巻した。さらに金属文具の製造も始めた。例えば万年筆に使う金具は、従来のものより一工夫加えたので評判は良かった。
徳次は商品だけでなく、作業方法にも創意工夫をした。もともと坂田の親方の許にいる時から、旧態依然とした仕事方法には疑問を持っていた。例えば道具の置き方を変えるだけで、能率が格段に上がることに気付いていたのだ。
さらに徳次が、「腕一本で勝負」の職人たちと違っていたのは、新技術に抵抗がないことだった。まだ町工場の規模の頃から無理をして、一馬力のモーターを導入した。「早川の機械気ちがい」と噂されたが、実際にモーターの力は素晴らしく、仕事がみるみる進んだ。
こうして順調に商売が伸びていき、独立三年目の春には巻島氏の仲人で結婚をした。そこへ、さらに決定打があった。それが早川式繰出鉛筆、現在のシャープペンシルの発明である。
この頃の繰出鉛筆はセルロイド製の玩具のようなもので、しばらく使うとすぐに壊れた。徳次はたまたま問屋が持ってきた商品を手にして興味を惹かれ、すぐに改良に取りかかった。もともと熱中すると寝食を忘れる性格だった。朝起きて寝巻のまま作業場に座り込み、朝食の声を聞くまで気付かないこともあった。
(できた、できたぞ!)
苦労の末に新工夫の操出鉛筆は完成した。これでいちいち鉛筆を削る必要がなくなり、しかもいつでも携帯できる。絶対に売れる確信があった。徳次は兄の政治と「早川兄弟商会」を設立し、営業にまわった。ところが予想に反して、問屋筋の評判は芳しくなかった。これは商品の質ではなく、日本人の保守性のためだった。金属製は冬に手がかじかむとか、洋服と違って和服ではポケットがないから売れない、などと言われる始末だったのである。
しかし、意外なところで風向きが変わった。欧州で始まった世界大戦である。