コラム

「洋酒文化の伝道師 鳥井信治郎   第2話」

明治時代の日本人にはワイン独特の渋みと酸味が口に適わず、流通している商品の大半は、原酒に香料と甘味料を加えた混合酒だった。中には砂糖水にアルコールを混ぜて色を付けただけの粗悪な品もあった。

鳥井信治郎は、限りなく本物に近く、しかも日本人の口に適う国産ワインの開発を決意した。ライバルは、電気ブランで名を馳せた神谷伝兵衛のハチ印ぶどう酒である。

信治郎が目を付けたのはポートワインだった。これはブランデーを加えて発酵を途中で止める酒精強化酒で、アルコール度数が高い一方、ぶどうの甘味が残って飲みやすい。

(これや、この自然な甘みを何とか出せんやろか)

信治郎はまったく屈することなく、ますます仕事に没頭した。

 苦心の末に誕生したのが、甘味ぶどう酒の傑作、赤玉ポートワインだ。米一升が十銭の時代に、信治郎は三十八銭の値段を付けた。品質にそれだけの自信があった。だが信治郎がリアリストだったのは、いい品物を作れば必ず売れる、と単純に考えなかった点だ。

(どんなええもんでも、知ってもらわんことには話にならへん)

 信治郎はポスター、看板、瓶やラベルのデザインに凝った。赤玉の意匠は、太陽をモチーフにした。ちなみに現在の社名は、サン(太陽)トリー(鳥井)が由来だという。

新聞広告の重要性も理解していた。同業者が「たかがぶどう酒を売り出すくらいで新聞広告などしたら、一ぺんでつぶれてしまう」と嘲笑しても、意に介さなかった。

特に、赤玉が健康に良いという医学博士の有効証明を貰い大きく載せたことは、大きな評判になった。さらに「赤玉ポートワイン」と書いた角行灯や法被(はっぴ)を大量に作って町に繰り出した。町内で火事が起こると、やはり赤玉の提灯と法被をきた若い衆が駆けつけて、消火や救助にあたった。

映画やテレビが普及する前は、芸能で男たちを楽しませ、人気を集めていたのは芸者衆だった。信治郎は、彼女たちが正月に挿すかんざしを作って無料で配ったが、そこにあしらった小さな鳩の眼が赤い。つまりは赤玉ということである。

販売網の構築にも力を注いだ。祭原商店という大阪で屈指の洋酒問屋に熱心に通って、その信用を得たのが大きかった。販売促進のマージンや景品にもカネを惜しまなかった。こういう点、信治郎はしたたかで逞しい商人だった。

赤玉は激しくハチ印を追い上げた。もはや西日本では、ハチ印と互角に勝負できるまでになっていた。次は東京進出で、信治郎は自ら上京して販路開拓にあたり、国分商店など有力な店舗との取引に成功した。

もっとも、宣伝や販促にはそれだけ経費がかかる。いくら売上が増えても、その利益を右から左につぎ込むようなもので、資金繰りに窮することもしばしばだった。

幸運だったのは、日露戦争から第一次世界大戦に至る好景気の時代だったことである。生活の洋風化が進み、それを追い風にして、赤玉も大きく売り上げを伸ばした。

大正八(一九一九)年には、大阪の臨港に工場を建設して赤玉ポートワインを月に五千ダース生産したが、それでも間に合わず翌年には月産二万ダースに増産した。

同じ年、森永ミルクキャラメルの宣伝部長の片岡敏郎を、月給三百円で引き抜いた。これは新卒の給料のおよそ十倍だった。この片岡を中心にさらに斬新な宣伝を行った。

サイドカー宣伝隊もその一つだ。景品引換券付きのビラを撒きながら町を走り、琺瑯(ほうろう)製の特製の看板を打ち付けて回った。軍服風の服装も人目を引いた。

松島栄美子のセミヌードポスターは、全国の話題をさらった。肩から胸元、二の腕まで露わにした女性が、赤玉のグラスを手に艶然と微笑んでいる。それ以上見せたらワイセツ罪で逮捕、というギリギリの所で止めているのが絶妙だった。

赤玉楽劇団なる歌劇団を結成して、全国を巡業したのも異色だった。酒販店の接待が主な目的で、一年ほどで解散するが、阪急の小林一三が電車の販促のために少女歌劇団を結成したことを思わせて面白い。

ちなみに、信治郎の長男吉太郎は、小林の娘の春子と結婚している。この二人は認め合う仲だった。当時の大阪には他にも、野村證券の野村徳七、江崎グリコの江崎利一、パナソニックの松下幸之助ら、独創的な起業家が大勢いた。江戸時代初期に鴻池、淀屋などを生んだ、商都としての自由な空気が残っていたのだろう。

叩き上げの商人として十分な成功を収めた信治郎だったが、まだ満足はしていなかった。次の目標に定めたのは、日本初の本格ウイスキーだった。

信治郎が小西儀助商店で働いている頃から、国産ウイスキーなるものはあった。だがそれは原酒のほとんど入っていない、まがい物に過ぎなかった。

本物のウイスキーは、イギリスのスコットランドでしか作れないとされていた。アメリカのバーボンはトウモロコシが原料で、大麦から作るスコッチとは別物だった。

信治郎の口癖は、「やってみなはれ」だった。一見不可能に見える指示に部下たちが尻ごみする時、信治郎はそう言って挑戦を促した。信治郎の一言は絶対だった。

しかしウイスキー事業には、社内外から大きな反対があった。製法が分からないためではない。それは本場から技術者を招けば、何とかなることだった。問題は熟成だった。

(大将、何でもウイスキーいうんは、五年も十年も樽で寝かさなあかんらしいやないですか)

その間、商品は出荷できない。しかも、ただ寝かせればいいわけではない。保存年度の異なる原酒をブレンドし、さらに後熟させて、はじめて深い味わいとコクが出るのである。商品の出来も、その時になって初めて分かる。

目先のソロバン勘定では、どう考えても引き合わない話である。だが信治郎が見ていたのは、その向こう側だった。

(ウイスキーかて、いずれビールやぶどう酒みたいになる。みんなが気軽に飲むようになるんや。それを日本人の手で造らんで、どないするんや)

成功の確信は、信治郎の胸中に溢れるほどあった。だがそれを実現するには、まだ遠い道のりを歩まねばならなかった。