コラム

「日本に実業界を創った男 渋沢栄一 第3話」

幕末、尊王攘夷の志士だった渋沢栄一は、高崎城夜襲計画を中止した後、一橋家に仕えてその実務能力を認められ、異例の出世を重ねた。

 一橋家の当主は、水戸徳川家出身の慶喜だった。越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂らと並び、賢公と呼ばれていた人物で、後に徳川幕府最後の将軍となる。

 当時の京都の用人の仕事は、諸藩の同役との交際が主で、高級料亭で酒を酌み交わしては肚の探り合いをしていた。栄一も上司の黒川に連れられ、何度か宴席に顔を出した。

 だが栄一はそんな仕事に満足できなかった。若輩とはいえ一橋家の一員として、今後の一橋家はどうあるべきか、を常に考えていた。そして立案したのが農兵募集である。

一橋家は家格こそ高かったが、石高はわずか十万石。しかも領地は各地に分散し、常備の兵力もほとんどなかった。一方領内の農民の中にも、次男、三男で身体強健で気概のある人物は多数いた。それを集めて一軍を編成しようというのである。

 栄一の献策は容れられ、自ら責任者として備中(岡山県)の領地に赴くことになった。まず代官に面会して協力を要請し、村々の庄屋を集めてねんごろに用向きを申し渡した。

 ところが一向に志願者が現れない。これは何かある、と栄一はピンときた。そこで発想を転換して、庄屋以外に人望のある人物を探したところ、阪谷希八郎という儒者が、多くの門下生を抱えていることが分かった。

さっそく酒樽に漢詩を添えて送り、翌日に阪谷と門下生を宿に招いて、酒肴でもてなし大いに時勢を論じた。さらに剣術道場を訪ねて手合わせし、道場主を見事打ち負かした。

こういう呼吸は、江戸で多くの志士と交際していたのでお手の物だった。狭い田舎のことなのであっという間に噂が広がり、農兵に応募する者も幾人か現れた。

この実績を踏まえて、栄一は再び庄屋たちを集めた。今度は一転して凄みをきかせた。

「見よ。わしが少し声をかけただけでこれだ。お前たちが一人も集められないわけはあるまい。殿様の命令に逆らう不届きな奴らめ、一人残らず首をはねてしまうぞ」

 庄屋たちは恐れ入って平伏し、白状した。

「実は、お代官様から、私どもにお達しがあったのでございます……」

 どこの馬の骨とも知れぬ奴の命令など、無視しておけばよい、志願者が一人もいませんでしたと言っておけばすむことだ、と事前に代官から指示されていたという。

元農民ということで、代官が栄一を軽んじ、面従腹背の態度を取っていたのだ。だがここで屈するわけにはいかない。栄一は闘志を燃やして、再び代官と会った。

「志願者が一人も現れないのは、私の無能と不徳の致すところ。辞職だけでは済みますまい。切腹してお詫びするつもりですが、必ずその原因も明らかにしますぞ」

 そこで栄一は、みんな知っているんだぞ、と言わんばかりに代官をじっと見た。

「ただそうすると、貴公に迷惑がかかるかもしれませんが、よろしいですか」

 丁寧な口調の奥にある気魄と覚悟に、代官は震え上がった。この件の現場責任者は自分であり、栄一が切腹すれば、自分も処罰を免れないのは明らかだった。

 これを機に代官は積極的に協力し、三百人もの応募者が集まった。栄一はその後、播磨、摂津、和泉(大阪府、兵庫県)の領地を周り、農兵の総計は四百五十人になった。

 この人数に洋式訓練を施したものが、一橋家の直轄兵力になった。栄一は訓練の手はずまで整えた。この働きに対して、白銀五枚、時服(季節の礼服)一重ねを拝領した。

 

 農兵募集のために領地をくまなく巡回したことで、栄一の見識は格段に広がった。そこで新たに殖産興業の計画を立てて献策した。それは直ちに採用された。

栄一は御勘定組頭に任命された。これは藩財政のナンバーツーに相当する重職である。さらに二十五石七人扶持、月棒二十一両に加増された。

栄一は、摂津・和泉の酒造米、播磨の白木綿、備中の硝石を特産品として生産を奨励し、販路を工夫して従来よりも多くの利益を上げられるようにした。

さらに栄一が真価を発揮したのは、藩札の管理だった。藩札とは藩が独自に発行する紙幣だが、どの藩でも価値が暴落し流通が滞っていた。一橋藩も例外ではなかった。

その原因は、引換えのための正貨を十分に準備せず、藩札を乱発しているからだった。

栄一は特産の木綿を一括して藩札で買い上げ、それを大阪で販売した代金を藩札引換えの原資として積み立てたので、藩札の信用が格段に高くなった。

確実に換金できることが分かると、人々は持ち運びに便利な藩札を重宝するようになった。そこで浮いた引換え用資金を運用に回して、さらに利益をあげることができた。

まさに水際立った手腕と言えた。実家で十代のころから藍玉の商売を取り仕切っていた栄一は、経済の実態を肌身で学んでいた。それがここで役に立ったのだ。

一方、時代は混迷の度を深めていた。長州藩が公然と反旗を翻し、幕府は征討の軍を発した。だが戦況は幕府に不利だった。薩摩がひそかに長州と同盟を結んでいたのだ。

そんな中で将軍家茂が死去し、一橋慶喜が十五代将軍の座に就いた。これによって栄一は徳川幕府の直臣となった。武州の農民の息子が、考えられないほどの出世だった。

だが栄一の胸中は複雑だった。かつて幕藩体制を倒す側にいたのが、皮肉なことに守る側になったのだ。しかも栄一は、時代の趨勢から見て、勝てない戦いと見通していた。

そんな折、栄一にヨーロッパ行きの命が下った。パリで開催される万国博覧会に、慶喜の弟の民部公子(徳川昭武)が派遣されることになり、その随員に選ばれたのだ。

民部公子は十四歳。博覧会終了後はパリに留学する予定であり、栄一は庶務会計をはじめ、公子の生活全般の世話をする役目だった。

当時の武士には、栄一のような経営・運営能力を持つ者が稀であり、その点慶喜がとくに栄一を見込んだのだった。

もはや攘夷志士の頃とは違い、欧米がいかに進んだ文明と科学技術を持っているか、分かっていた。その国々をこの目で見ることができる。栄一の心は奮い立った。