大坂に本店を移転した住友理兵衛友以(とももち)から、銅精錬業での住友家の歴史が始まり、その後を継いだ友信・友芳の代で本格的に鉱山経営に乗り出した。
西国一と謳われた備中の吉岡銅山の採掘権を入手した後、伊予国(現在の愛媛県)で発見された別子銅山はその後長く住友家の繁栄を支えた。
だがすべてが順風満帆ではなかった。吉岡銅山は老山で水抜き工事に莫大な費用がかかった。また別子では毎年のように災害に見舞われ、とくに元禄七年の火災では、支配人以下百三十二人が殉職するという大惨事となった。
破格の産銅量を誇った別子も、元禄十二年の二百五十万斤(千五百トン)をピークに漸減していった。いわゆる「遠町深鋪(えんじょうふかじき)」が、当時の鉱山の宿命だった。
薪や坑木のために周辺の木を伐り尽くしてしまうと、より遠くから木を運ばなければならなくなる。また、鉱脈を深く掘れば掘るほど地下水が湧いて、排水の手間がかかる。
このように、鉱山経営が長期間にわたると採掘のためのコストがかさみ、事業として成り立たなくなってしまうのだ。
吉岡銅山の場合はさらに深刻だった。疎水坑道掘削の大工事は成功し、一時は年間九十万斤の産銅量があったが、掘れば掘るほど水が出る状態で、将来性は見込めなかった。
友芳は江戸に下り、勘定奉行荻原重秀に、吉岡銅山の請負を返上したい、と願いでた。荻原は難色を示した。一度許したものを、公儀の威光にかかわる、というのである。
実際のところは、幕府は外国商人に約束しただけの銅を確保できずに困っていた。吉岡銅山も、老朽化した鉱山の再生をやむなく住友が引き受けたというのが実態だった。
友芳はそれならばと、吉岡・別子両銅山の運転資金として一万両の拝借金と、西国の天領から別子銅山の飯米六千石を十ヶ月延買いでの払下げを嘆願した。荻原は承知した。
吉岡は水抜き工事にかかる負担が大きく、最終的に拝借金五千両を返上して閉山するのだが、幕府から巧みに援助を引き出した友芳の交渉手腕はさすがだった。
友芳は享保四年(一七一九)、五十歳で没したが、この友芳の代が江戸期における別子銅山と住友家の絶頂だった。以降、銅山とともに住友家も静かに衰退していく。
元禄年間に一千万斤(六千トン)を超えた銅の輸出高は、宝暦四年(一七五四)にはわずか二百七十万斤にまで減少していた。銅山の老朽化による産出高の減少が原因だった。
オランダ、中国との貿易の支払いに窮した幕府は、銅座を大坂に設け、そこで全国の銅を一元管理することにした。
全国の鉱山で掘り出され、精錬された銅は御用銅として銅座に納入された。銅座役人がこれを長崎会所に廻送し、貿易の決済に充てるのである。
別子銅山は全国の輸出高の四分の一にあたる七十二万斤の御用銅を割り当てられ、それは幕末まで続いた。
ところが宝暦以降幕末までの別子の産銅量は、百万斤を超えることは滅多になく、せいぜい七十万か八十万斤がやっとだった。
最大の原因はやはり地下水だった。鑿(のみ)と槌(つち)の手掘りで百年近く掘り続けた坑道は深く狭く、排水は困難を極めた。一時長崎出島のオランダ商館から、蘭方水引道具(ポンプ)を導入したが、坑道の狭さのためさほど効果はなかった。
ついに予算五千二百両、六か年計画で、大水抜開鑿工事を断行した。だがこれも、吉岡銅山と同じく、根本的な解決にはならなかった。
経営上のもう一つの問題は、幕府から購入する六千石の飯米だった。幕末になり米価が騰貴し、それに連動して買取価格も上がっていたが、銅の買上代金は据え置かれた。
売上が上がらないのに、経費だけが増えていくというわけだ。そうなるといつの時代でも、最後の手段は人件費削減だった。
住友もやむなくこれを断行したが、そうすると現場で命を懸けて働く鉱夫たちから、怨嗟の声が上がるのは当然のことだった。
天保十年(一八三九)には、御用銅の四十万斤への減額と飯米の代金の支払い延期を幕府に嘆願している。住友の経営がそれだけ苦境に陥っていた証拠だろう。
さらに住友を悩ませたのが、御用金だった。幕末になると幕府も手許不如意で、事あるごとに富商たちに御用金を命じた。住友に余裕はなかったが、断ることもできない。
このような事情で幕末の住友は経営的に苦境に立ち、いっそ別子銅山の請負を返上しよう、という声も出るほどだった。
そんな多難な最中に、第十一代当主友訓(ともくに)が、元治元年(一八六四)十一月に二十四歳の若さで世を去った。しかも子どもがいなかった。
この元治元年は日本にとっても多難な年だった。六月に新選組が池田屋を襲撃して多くの志士を斬り、七月には長州勤王党が報復のため京都御所を襲って敗れた(禁門の変)。
この後、第一次長州征伐で幕府に屈服した長州藩は、ひそかに土佐藩浪人坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、第二次長州征伐では逆に幕府軍を散々に打ち破った。
このように時代が大きく動いている時期に、住友家では当主が不在になり、番頭たちが連日対策を協議したが、意見は割れてまとまらなかった。
この住友家崩壊の危機に、忽然と現れた男がいた。それが広瀬宰平である。広瀬は十一歳で別子銅山に奉公し、以来銅山一筋で叩き上げてきた男だった。
広瀬はどのようにして、危機にあった住友家を再生させたのだろうか。これより後の話は近代に属するので、稿を改めて第十話としてお届けしたい。