コラム

「住友中興の祖 広瀬宰平 最終話」

広瀬宰平は、幕末に経営危機に陥っていた別子銅山の再建に取り組んだ。彼は十一歳から別子で奉公を始めた叩き上げで、現場を知り尽くし、強い意志と決断力があった。

生野銀山の調査行に同行した広瀬は、フランス人技師コワニエから西洋の新技術を吸収した。さらにフランス人技師ラロックを招いて、別子の近代化を推し進めた。

明治十年に、住友の総理人の座に就いて住友を代表する立場になると、財界活動に取り組む機会も増えた。当時の大阪財界のトップは薩摩出身の五代友厚だった。

鉱山開発に熱心だった五代は早くから宰平のことを見込んでいたが、両者の交友が濃密になるのは、明治十一年頃かららしい。以降、宰平は五代の片腕として働いた。

五代は大阪経済活性化のため、大阪株式取引所(現:大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現:商工会議所)を相次いで設立したが、そのいずれにも宰平が深く関わっている。

さらに宰平は五代の命を受けて、蝦夷地(北海道)視察に赴いた。当時の開拓使長官は、五代と同郷の黒田清隆。北海道開拓を民間に任せるという政府の方針を受けて、五代と宰平が共同で会社を設立して開拓に当たる、という話になっていた。

ところが黒田が、官有財産を安い価格で五代らに払い下げようとしたことが、新聞に大きく報じられてしまった。世論の批判を浴びて、結局、計画は中止になった。

同時にこの騒動は、払い下げを新聞にリークした黒幕とされた大隈重信が失脚(明治十四年の政変)するなど、政界を揺るがす大事件につながっていく。

五代もその渦中で大きな批判を浴びたし、宰平も無傷では済まなかった。だが宰平には住友の再建という人生を懸けた大事業があった。彼はますます仕事に没頭した。

さいわい、別子銅山の近代化は順調に進み、産銅量は着実に増加していた。かつて改革の先頭に立っていた宰平も、老境に差し掛かりつつあった。

ところそんな矢先、思わぬところから敵が現れた。住友内部で宰平の排斥運動が起こったのである。その理由は、宰平が余りに独裁的だというものだった。

明治維新という歴史的変動期に、宰平が住友の改革に成功したのは、その強い信念のためだった。ところが時代の安定期に入ると、その長所は逆に短所になったのである。

宰平は身を退く決意をした。明治二十七年、六十七歳のことだった。住友家は宰平の功に報いるため、生涯、総理人の資格で礼遇することとした。

「あなたの後は、いったい誰に住友のかじ取りを任せたらよいのか」

 当主の諮問に対して、宰平はしばし瞑目してから答えた。

「伊庭がいいでしょう。我が甥ながら、あれはなかなかの人物です」

 宰平はその後も長命し、大正三年まで生きた。海を見下ろす須磨の邸宅で悠々自適の生活を送り、経営に口出しすることはなかったという。

宰平の退任後、二代目の総理事となった伊庭貞剛(いばていごう)は、禅を深く学び、単なる経営者というより、人格者という表現がふさわしい人物だ。

明治元年郷里の滋賀から上洛して、京都御所禁衛隊に所属したことがきっかけで、官界に進んだ。主に司法畑を歩み、大阪上級裁判所の判事を最後に退官して、住友に入社した。明治十一年、三十三歳である。

入社三か月で本店支配人に抜擢されるなど、住友では要職を歴任した。さらに住友に籍を置きながら、大阪商業講習所(現:大阪市大)や大阪紡績株式会社(現:東洋紡)の設立に関わり、明治二十三年には地元滋賀県から衆議院議員選挙に出馬して当選した。

官尊民卑の時代だから、元判事という肩書に相当な重みがあったことは間違いない。だがやはり、伊庭の人間的魅力が人を惹きつけ、動かしたことが大きいだろう。

本店が宰平の排斥問題で揺れている頃、伊庭は支配人として別子銅山に赴任していた。長年別子を悩ませていた、煙害(公害)問題解決のためである。

銅を精錬する時に発生する亜硫酸ガスのため、農作物や人の健康に甚大な被害が出ていた。また周辺の山々も、燃料用薪の伐採と煙害のため、すべてはげ山となっていた。

伊庭は精錬所を瀬戸内海沖の四阪島に移し、毎年百万本を超える大植林運動を始めた。別子全山をもとの青々とした姿に戻すことを、住友の社会的責任と考えていたのだ。

伊庭は四阪島の精錬所の工事着工を見届けて大阪に戻り、空席になっていた総理事の座に就いた。だがそれを四年で、鈴木馬左也(すずきまさや)に譲って退任してしまう

「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくして、老人の跋扈(ばっこ)である」というのが理由だった。

 鈴木は東京帝大卒業後に官界に入ったエリートで、伊庭の植林計画を継承し、別子の復興に努めた。銅事業に心血を注いだ宰平と異なり、伊庭や鈴木の時代には、銀行業に本格参入するなど、事業は多角化し、住友は巨大な財閥となった。

だが鈴木は、家祖文殊院(住友政友)の家訓をタテに、商社への参入だけは頑として認めなかった。住友商事が設立されるのは、戦後になってからである。

 

江戸時代に大坂で栄えた豪商のうち、鴻池が明治後に振るわなかったのに対し、住友が躍進したのはなぜかという疑問を、冒頭に述べた。

その答えは様々にあろうが、その一つに人材の差があったことは間違いない。では、その人材の差は、なぜ、生じたのだろうか。

教育システムの問題もあるかもしれないし、ひょっとしたらただの運かもしれない。だが、様々な企業の栄枯盛衰を見て感じることがある。

真に一流の人物は、自分よりすぐれた人物を登用するが、二流の人物は逆に、自分より劣った人物で配下を固めようとする。その差が企業の命運を左右するように思える。

企業を経営するのが人間である以上、どんなにすぐれたシステムを作っても、最後はそれを運用する人間の問題になる。これはあらゆる組織にとって、永遠の課題であろう。

日本の戦後を支えた名だたる名門企業が、業績低迷にあえぐ例が近年多いが、その原因もつまるところ、同じであると思えてならない。