コラム

「住友中興の祖 広瀬宰平 第4話」

広瀬宰平の必死の運動により、住友家の別子銅山に対する権利は認められ。だが銅山の老朽化という、別子が抱える本質的な問題の解決は容易ではなかった。

一方新政府は、宰平の能力を見込んで、鉱山司という新設の役所への出仕を命じた。

当時、大阪府の権判事(副知事)だった薩摩の五代友厚は、鉱山経営に関心を寄せていた。五代は、フランス人の技師コワニエに、生野銀山の調査を依頼した。

生野は信長・秀吉以来の古い鉱山で、やはり老朽化による採掘量減少という問題を抱えていた。宰平もその調査に同行を命じられた。

欧州では日本のような手作業ではなく、火薬を使って坑道を広げ、機械式ポンプで地下水を排水している。そういう話を直接聞けたのは、宰平にとって大きな刺激になった。

調査の結果、コワニエは、最新鋭の機械を導入すれば今後大いに有望、と報告した。新政府はそれを受けて生野銀山を政府直轄とし、コワニエらお雇い外国人を使って、西洋式の鉱山経営を始めた。

(別子でも同じことをすれば、銅山は蘇る!)

 宰平はその後、伊豆の金山の調査なども行ったが、まもなく辞表を提出した。鉱山局に勤めていたのは、一年にも満たなかった。

「もったいない。君はこれからの日本に必要な人材だというのに」

 五代は、宰平の辞職を惜しんだ。

「お言葉は有り難いのですが、官途に就くだけが人生ではありますまい。私は住友を立派にすることによって、世の中のお役に立ちたいのです」

「むむ、そうか。立場は違えど、志は同じだな。またどこかで仕事を一緒にできるのを楽しみにしているぞ」

 五代自身もこれからほどなく官を辞し、在野の立場から、大阪に近代産業を興す取り組みを始めるのだが、これはもう少し先の話である。

 

西洋の新技術の導入の必要性を痛感した宰平は、ノミと槌による手掘りに代えて、さっそく火薬を用いた掘削を導入した。

そのために工夫したのが、「盛山棒」である。これは先端の尖った穿孔用の鉄棒で、岩盤に火薬を埋める孔を明けるために使われた。「盛山」という言葉には、山が盛大に発展することを願う、宰平の思いが込められていた。

これは一時関西の鉱山で広く使われたらしいが、当時の黒色火薬は品質が劣化しやすく、なかなか点火しないのを不審に思って様子を見に行ったところで爆発する、などの事故が後を絶たなかった。

この頃宰平は、大阪の本店勤務となっていた。重役として住友の経営全般に参画する立場になったのである。のちに総理人(総理事)という、事実上のトップの座に就く。経営の困難は相変わらずだったが、方向性はすでに見えていた。

すなわち、住友再建の根本は別子銅山の再建にあり、別子再建のためには、西洋の最先端の技術の導入による近代化が必須だった。

宰平は、生野にいるコワニエ技師を別子に派遣してもらうよう、新政府に願い出た。別子を視察したコワニエは、直ちに二点の提言をした。

一つはこれまで空中に飛散させていた鉱煙から硫酸を抽出することで、もう一つは、廃棄していた鉱石の粉末を水に沈殿させて銅を抽出することだった。

どちらも、まったく思いつかなかったことだった。宰平はますます新技術の必要性を感じ、横浜オリエンタルバンク支店長のガイセン・ハイメルを窓口として、フランス人技師の招聘に乗り出した。

ハイメルは海千山千の商人だった。彼はフランス人技師のルイ・ラロックを紹介したが、その月給は六百円。広瀬の実に六倍である。その他にも、多額の費用がかかった。

住友内部では、ラロックの雇い入れに反対が噴出した。余りにも給与が高額だったし、地方では西洋人への偏見も根強く、不測の事態も懸念されたからである。

だが宰平はその反対を押し切った。ラロックもその期待を裏切らず、滞在中の一年半ほどの間に、「別子鉱山目論見書」という報告書を完成させた。

その眼目は、海抜一一五〇メートルにある東延から、新たに斜坑を掘削することにあった。実は幕末にあった大地震で、「三角すま」と呼ばれる富鉱帯が水没していた。

これを再び採掘するには、従来の手掘りの細い坑道では無理で、近代的工法を用いて、水抜き坑道と本格坑道を掘削することがどうしても必要だった。

さらに鉱山から新居浜までの車道の開通も提言していた。鉱山は海抜一三〇〇メートルの高所にあり、これまで物資の運搬はすべて荷役夫に頼っていた。もしそこに本格的な車道を建設し、牛車や馬車で荷物の運搬が出来れば、能率は格段に上がる。

「広瀬さん、日本人の力だけでは、これだけの大工事は無理ですよ」

 ラロックは自分が別子に残って工事の監督に当たると申し出たが、宰平はそれをきっぱりと断った。宰平は日本人としての誇りと独立心を持っていた。いつまでも外国人に頼っているつもりはなかったのだ。

 牛車道は明治九年に工事に取り掛かり、全長三十九キロが四年後に完成した。峻険な山道を回避するためのトンネル工事も、明治十五年から四年がかりで完成させた。東延の斜坑は最も難工事で、明治九年の着工から完成まで十九年の歳月を要した。

 西洋の近代技術導入後、別子の産銅量は劇的に増えていった。明治二年にわずか六十二万斤(約三六〇トン)だったのが、五年後には百四万斤。その後も右肩上がりに増え、明治二十七年には四百六十万斤にも達した。

 別子の復活と共に、住友家も不死鳥のように蘇ったのである。