伊予国(現在の愛媛県)で発見された別子銅山は、百七十年にわたり住友家の繁栄を支えてきた。しかし幕末にはヤマは老朽化し、産銅量は減少の一途をたどっていた。
そこに明治維新が起こった。新政府は、別子銅山を徳川幕府の財産とみなし、土佐藩の部隊を派遣して、差押えをはかった。
支配人広瀬宰平は、隊長の川田小一郎と談判して住友家と別子の関係を説き、別子は住友に任せた方が新政府のためになると説得して、事なきを得た。
ところがその頃、別子銅山を十万両で売却する話が持ち上がり、当主友親と重役たちは承諾に傾いていた。
急いで大坂に駆け付けた宰平は、会議の席上で居並ぶ重役たちを詰問した。重役たちは困惑した様子で、口々に言い訳を並べ始めた。
「そうはいっても、幕府に売却した銅の代金が焦げ付いていて、金庫には本当にカネがないのじゃ」
「実は奉公人に払う給銀さえ、相当に滞っておる」
「別子の操業の許可が出たといっても、掘れば掘るほど赤字のヤマなのは知っておろう」
宰平は満面に朱を注ぎながら、それを聞いていた。当主の友親はうなだれたまま、何も言わない。
先代が急死した時、他家へ養子に出ていた友親を復籍させ、住友家の当主に迎え入れたのは宰平だった。それだけに宰平は、現当主への期待が大きかった。
「友親様。かりに別子を売却したとして、その後、住友家は何をなさるのですか?」
宰平は静かに尋ねた。別子を売却した十万両で、新たな事業を興す予定があるのかどうか、という意味である。友親は、ハッとした表情をした。
現状の苦しさに捉われて、視野が狭くなっていたことに気付いたのだ。赤字の銅山を売却してカネが入るのなら悪くないと思っていたが、確かに銅に代わる事業などありはしない。十万両は大金に見えるが、肝心の事業がなくなれば、当座の費用に食いつぶしてしまうのは目に見えている。
「宰平、よくぞ言ってくれた。銅こそが、業祖蘇我理右衛門以来の当家の柱じゃ。どんなに苦しくとも、別子を立て直す以外に、当家の生きる道はない」
友親は、目が覚めたように、きっぱりと言い切った。
「しかし友親様、このままでは使用人に払う給銀がありませんぞ」
重役の一人が困惑したように尋ねた。
「住友家累代の家宝を抵当に入れてカネを借りよう。事業さえ建て直せば、いずれ手許に戻って来る。……宰平、頼んだぞ」
「もったいないお言葉です。及ばずながら、私も別子再建のために私財を投げうちます」
この二人の決断が、明治後の住友の繁栄につながったと言っていい。
宰平は馬車馬のように働き始めた。もっとも、別子銅山の抱える問題は旧幕時代と本質的に変わっていない。しばらくは苦闘の日々が続いた。
まず鉱山労働者の飯米の確保。六千石の官米の払い下げの継続とその代金の返済の猶予を、宰平は何度も新政府に嘆願している。
次に人件費の削減。全従業員に対し一割から三割の減俸を実施したが、それだけでは士気が下がる。そこで実力に応じて賞与を支給するなど人材登用にも取り組んだ。
さらに銅の販売ルートの確保も大きな課題だった。幕府と違い、新政府は銅の専売制を布かなかった。そのため精錬した銅の販売先は、住友が自ら探さねばならない。
最初は国内の卸売業者に販売していたが、中間業者が入ると、サヤを抜かれる分だけ損である。そこで直接外国商館と取引すべく、神戸に支店を設けた。
大阪の鰻谷にあった精錬所を、別子の立川に移転した。これまでは大坂の銅座に銅を納める必要があったが、それが廃止された以上、鉱山の近くで精錬する方が合理的だった。
また、別子銅山内でのみ通用する「山銀札」を発行して、給銀の支払い等に充てた。もっともこれは政府から違法との指摘を受けて、のちに取りやめている。
これらはすべて宰平が中心になって実施した。住友家の重役のほとんどは丁稚から叩き上げた人物で、これまでのやり方を忠実に守ることしか頭にない人たちだった。
維新後ほどない頃、住友家の新年会の席上で、宰平は「相変わりて、おめでたく候」と挨拶して物議をかもしたことがあった。
「広瀬殿、『相変わらず』めでたいというのが、古来の礼儀ではないか。せっかくの新年の祝いの席で不吉であろう」
だが宰平は毅然として反論した。
「今、世の中がこれだけ大きく変化しているというのに、自ら何も変わらずにいて、何がめでたいのですか。これからの時代に住友家が栄えていくためには、何よりも旧弊を捨てて改革を進めていくほかはありません」
宰平の言葉に、一同は粛然として声もなかった。
一方、明治新政府も、宰平のことを放っておかなかった。別子銅山接収をめぐる一件から、「住友の広瀬は大した男らしい」という評判が広がっていたのだ。
富国強兵政策を進める政府にとって、鉱山事業は近代化のカナメであり、有能な人材はノドから手が出るほど欲しかった。
明治元年、大坂過書町の幕府の旧銅座跡に鉱山司(つかさ)が設けられると、宰平もすぐに出仕を命じられた。
当時、薩摩出身の五代友厚が大阪府権判事(副知事)を務めていた。五代は幕末に英国に留学した経験があり、商都大阪に新たな産業を興そうとしていた。
この出会いが、のちに宰平の運命を大きく変えることになるのである。