業祖蘇我理右衛門以来、住友の歴史は銅と共にあった。とくに元禄年間に発見された四国の別子銅山は世界屈指の富鉱で、住友の繁栄を支え続けた。
だが幕末になると、坑道は地中深く延びて大量の地下水が湧出するなど、採掘は困難を極め、産銅量は盛事の三分の一近くに落ち込んでいた。そのような時期に広瀬宰平は別子の総支配人に任命され、経営再建に取り組むことになった。
一方、日本という国自体も危機の渦中にあった。黒船来航後の倒幕運動は頂点に達し、京都で長州軍が幕府軍と武力衝突して敗れた。いわゆる蛤御門の変である。
勢いに乗る幕府軍は長州征伐の命令を発した。将軍家茂は大坂に本陣を構え、全国から十万の軍勢が集結した。いくら大坂に全国のコメが集まるとはいえ、これだけの軍勢を養うだけの兵糧米の確保は、容易なことではなかった。
コメ一石(百四十キロ)当たり銀二百二十八匁(約六万八千円)だった米価は、一年も経たないうちに三倍以上に急騰した。庶民の生活は困窮した。西宮で打ちこわしが起こり、それがたちまち周辺の播磨、摂津、但馬などに波及した。
別子銅山では労働者とその家族のために、幕府から毎年八千石余りのコメを、廉価で払い下げて貰っていた。ところがそれが戦争のため停止された。
宰平は必死になってコメを買い集め、鉱山近くの荒れ地の開墾にまで取り組んだが、焼け石に水でしかない。もちろん、幕府筋にも何度も嘆願した。
「お願いします。別子四千人が生きるか死ぬかの瀬戸際なのでございます」
「こっちは戦争なのじゃ。そのくらい、自分で何とかせよ」
実は長州(現在の山口県)に進軍した幕府軍は、奇兵隊を始めとする長州の新式軍隊の前に連戦連敗だったのである。そこに将軍家茂が病で逝去し、幕府軍は遂に撤退した。
戦争が終わって官米払い下げは再開されたが、量は六千石に減らされた。そのため、労働者に支給するコメを一人当たり月一斗(十四キロ)減らさざるを得なかった。
しかし、毎日過酷な労働に従事するヤマの男たちにとって、これは死活問題だった。そうしてある日、溜まりに溜まった不満が爆発した。
銅山を監督する川之江の代官所に、暴徒となった労働者が押しかけて抗議したのだ。宰平は矢面に立って彼らを説得し、何とか騒ぎを静めることに成功した。
「腹が減って仕方なくやったことでございます。どうか穏便な処置をお願いいたします」
宰平は代官所に嘆願したが、当時の法律では一揆は重罪である。結局、十名ほどの主謀者が、代官所に捕らえられて牢に入れられた。
この件で逆恨みされた宰平の許に毒入りの饅頭が届くなど、不穏な空気はしばらく収まらなかった。ヤマを下りる男たちも多く、鉱山は通常の運営ができる状況ではなかった。
その間にも、時代は激しく動いていた。十五代将軍徳川慶喜の大政奉還により、明治新政府が成立した。そして鳥羽伏の戦いで、薩長を中心とする新政府軍が勝利した。
新政府は直ちに幕府方の領地の接収に動いた。四国の別子銅山には、土佐藩の一隊が接収にやって来た。隊長は川田小一郎。のちに三菱を興した岩崎弥太郎の片腕となり、日銀総裁にもなった人物である。
川田は銅山の責任者である宰平を呼び出した。
「ここが徳川幕府所有の銅山であることに間違いはあるまいな」
「土地は確かにそうですが、それ以外はすべて住友の所有でございます。百七十年にわたり、住友が一手に採掘を請け負ってきたヤマでございます」
当時の主要な鉱山は名目上すべて幕府の直轄地で、それを商人が願い出て採掘をし、運上金(使用料)を納めるという形をとっていた。
別子もその例にもれないが、鉱脈の発見から開発に至るまですべて住友が独力でやってきただけに、実質的には住友所有の鉱山と言えた。
「なんだと。鉱山の接収を免れたくて、そのようなことを言うのであろう」
川田の言葉に、宰平の眼が光った。彼は平伏していた顔を上げて堂々と言った。
「私はただ、ありのままを申し上げたまでです。接収するというなら、なさいませ。ですが、住友から別子をお取り上げになったとして、いったい誰がその運営を担うのですか」
「つけあがるな。よその鉱山から人を連れて来ればすむことであろう」
川田はきっとして宰平をにらんだが、宰平は怯まなかった。
「失礼ながら、ヤマにはそれぞれ特質があります。鉱脈の在り処、地滑りや湧水の起こる場所、それぞれ違います。よそのやり方が、簡単に通用するものではありませんぞ」
川田はその態度に内心感嘆して、態度を少し変えた。
「なるほど。別子のことは知り尽くしているとみえるな。ここで働いて何年になる?」
「十一歳の時に奉公を始めて、かれこれ三十年でございます」
「ほう……。それで、どうしたいのだ。そちらの存念を聞こう」
「これまで通り、別子を住友にお任せ願いたいのです。さすれば新政府のために大いに働いて、これまで以上に利益を上げてみせましょう」
「言い分はよく分かった。当面の間、従来通りの操業を認めよう」
「ありがとうございます」
もちろん、これは現場での判断に過ぎず、別子に対する住友の権利が正式に認められるには、新政府の許可が必要だった。川田は宰平のために、その労を執ってくれた。
驚くべき好意といえた。宰平も相当の人物だったが、それを初対面で見抜いた川田も非凡な人間ではなかった。
川田の尽力と宰平の奔走の甲斐あって、ようやく新政府の許可が下りた。宰平は安堵の吐息をついたが、そこへ驚くべき知らせが飛び込んできた。
住友が、別子銅山を十万両で売却しようとしている、というのである。宰平は大急ぎで大坂の本店に駆け付けた。