周囲には、正岡や川端夫妻、それに十数人の招待客が碁盤の周りを遠巻きに囲む。
「それでは、対局を開始してください。葉子さんの二子局でお願いします」
立会人席の北川九段が声をかけると、島村と葉子は頭をさげてから碁笥を手前に寄せ、蓋を開いた。
島村は第一着を手前の星に打つ。
葉子は下辺右の星に黒石を置いた。振袖の袂を左手で押さえ、白い手をスッと伸ばす所作は美しい。
島村の第二着は下辺左の星の黒石に二間高ガカリ。下手が対応に少し悩まされる着手である。葉子はしばらく考えていたが、右辺の星下に打つ。それを見て、島村が右下の黒石にコゲイマにかかると、葉子は素直に一間に受けた。
以後、白番、黒番ともに上辺、左辺の大場、続いて白番の右辺への打ち込み、黒番の左辺シマリとオーソドックスな布石時代が続いた。
正岡は、川端理事長に肩を叩かれ、別室へ誘われた。
「社長、どうやろ。島村君は葉子を勝たせるようなことはないわな。おとなしい碁になりそうやが、葉子は地に辛いし、ヨセも強いで」
「さあ、島村君が負けることはないと思いますよ」
二人はワイングラスを取り、オードブル皿に手を伸ばす。そこへ駒子夫人も姿を見せ、正岡に「葉子は緊張しているようで、ちょっと心配ですわ」とバッグからハンカチを取り出して目元の汗を拭いた。
「駒子、緊張して負けてくれたほうが、ええやないか」
「あなたは、そんなことを仰るけど、あの子が好きな道を選びたい気持ちを邪魔するわけにはいきません」
駒子夫人は、意外と強い口調である。
「勝負は、分かりません。葉子さんの打ちっぷりを拝見しましょう」
正岡は、二人の話がややこしくならないうちに、対局の行われている部屋へ夫妻を促した。
島村と葉子の対局は序盤を終えて、中盤へさしかかろうとしていたが、北川九段の「正午になりましたので、三十分、休憩します」という声で、二人は礼を交わして立ち上がり、葉子は部屋から出て行った。
「島村先生、どうですか。葉子の調子は」
川端理事長が、島村の横に立ち、そう尋ねた。
「しっかりした碁を打たれています」
「形勢は、どうです」
「まだまだ、分かりません」
島村がそう答えると、北川九段が近づいてきて「対局者に話しかけるのは、理事長、あまり感心しませんよ」と、理事長を諫めた。
休憩が終わって、対局が再開。
葉子は、地に辛い棋風のようで、三隅でほぼ定石通りに打って確定地を持っている。島村は下辺から中央にかけて厚味を築いているが、盤面は葉子がやや優勢と言えるようだ。
百手を超えたあたりで、島村は少し時間をかけ、形勢を見てみた。(このまま戦いが無ければ、ヨセの勝負になる)というのが、彼
の判断だった。(中央の地を、どれだけまとめられるか、だな)
島村はそう思って、右辺から伸びている数子の黒石の行く手を阻むように、一間トビを打った。
葉子は小考してから、その白石にツケを打つ。島村はハネで応じた。葉子もハネ返したのに対して、島村は二段バネ。ここでは、黒は切りを防いでカケツグと彼は予想した。
だが、葉子は切りを入れてきたのである。島村は直感的に、黒の数子が右辺の黒地から分断されると思った。黒の薄みをついて、この数子を切り取ると、白の圧勝になる。彼は、念のために読みを入れた。この一局で初めての長考だ。そして、その結論は白からのつけ越しで、切りが成立すると読みきった。
彼は、とりあえずアタリになっている一子をツグ。
葉子は、島村の長考が意外だったのだろう。切った白石をアタリにして、中央を大きく荒らすつもりだろうが、その結果がどうなるか、あらためて読んでいるようだ。
数分考えてから、やはり、葉子は中央を荒らす作戦に出た。
島村は再び長考に沈む。彼の脳裏に「負けるなよ」という正岡の言葉が浮かんだ。ここで、黒石を分断して取り込めば、葉子は投了するに違いない。(しかし…)と、彼はその切りを決行せずに、中央の荒らしを防ぐような穏やかな一着を打った。
葉子は再び考え込んだ。島村の打った石が緩着に思えているはずだ。彼女は、さらに白模様を消そうとする。
島村は、小考の後、黒石を分断しようとするノゾキのような石を打つ。この手を打たなくてもつけ越しが成立するのだが、彼はそうしなかった。