島村は、JR三宮駅に近いホテルの高層階の一室のドアをノックした。間もなくドアが開けられ、中からタキシード姿の若い男が「おはようございます。どうぞ、お入りください。正岡社長がお待ちかねです」と、部屋の奥へ招いた。
カーテンの開け放たれた大きな窓から、明るい日差しが部屋中に差し込んでいる。広い部屋の中央にテーブルがあり、その上に豪華な花が飾られていた。周りにも、白いクロスがかけられたいくつかのテーブルが配置されて、ワインやオードブル皿が並べられてある。
「やあ、島村君、新年おめでとう」
部屋の隅のソファで周囲の人々と談笑していた年配の男が立ち上がり、にこやかな笑みを浮かべながら、島村に握手を求めてきた。
「おめでとうございます。正岡社長」
正岡は、島村の背を軽く叩き、カーテンウォールを押し開いて、隣室へ案内した。
この部屋も広い部屋で、やはり大きな窓からの外光が眩しいほどだ。部屋の壁際に金屏風が立てかけられ、両側に立派な松飾りが据えられてある。その前に、黒檀のテーブルが置かれ、碁盤と碁笥が載せられていた。
そのテーブルを、すでに数人の男女が囲んでおり「やあ、島村先生」「お正月早々の一局を拝見しに参上しました」「どんな碁になるのか、楽しみです」などと、口々に声をかけてくる。
島村は、それぞれに会釈を返しながら、正岡とともに窓際に用意されたソファのひとつに腰を下ろした。窓から神戸の市街と、大阪湾が望める。松の内が明けたばかりの休日で、冬晴れの空に、細い雲が幾筋も走っていた。
「いい正月だな。祝杯続きで身体の調子を崩すなよ」
正岡は、ウエイターからワイングラスを受け取り、そのうちのひとつを島村に手渡し「まあ、一杯ぐらいはいいだろ」と笑顔を見せる。
「有難うございます」と島村は軽く礼を述べたが、ワイングラスを口元に運ぶことはなかった。
正岡は、島村の横顔に視線を向けながら「去年は立派な成績だったけれど、今年はもっと大きなタイトルを取ってくれよ」と、機嫌よさそうにワインを飲み干した。
「はい」と、島村は小さく微笑む。
正岡の言うように、島村は昨年秋の「新鋭戦」で優勝し、囲碁界のほか、マスコミからも注目を浴びた。中学三年のときに入段を果たし、プロ棋士になってから丁度十年目でのタイトル獲得となったわけで、これからの活躍が期待される成長株という評価を受けている。
島村は、母子家庭のひとりっ子として育った。母親はささやかな飲食店を経営し、息子の世話は祖母に任せていた。母親は、囲碁についてまったく知識も関心もなかったが、たまたま自宅の近所にプロ棋士の道場があり、小学生の島村がそのプロ棋士にアメ玉を貰ったのがきっかけで、その道場へ遊びに行くようになった。プロ棋士が島村を可愛がっているうちに、島村は囲碁に興味を持ち、道場で手ほどきを受けて才能が開花したようだ。その棋士に誘われて弟子となり、院生の試験にも合格。当然、母親はプロ棋士になることに反対したが、島村は高校受験を目指す過程で、見事に入段を果たし、プロ棋士の資格を得たのだった。