コラム

「遅れて来た革命家 大隈重信   第4話」

西南戦争で西郷隆盛が敗死してまもなく、大久保利通が暗殺された。これによって明治政府は、大隈重信、伊藤博文ら次の世代に託されることになった。

一方、武力による政府打倒が失敗した後、言論による政府批判と国会開設を求める運動が燎原の火のように広がっていた。大隈はこれに賛成だったが、藩閥の利益を代表する伊藤はそうではなかった。これが二人の確執となっていく。

民権運動の高まりを政府も無視できなくなり、参議に意見書の提出を求めたが、大隈だけは提出しなかった。それを不安に思った伊藤は、大隈と井上馨を熱海の温泉に招いた。かつての築地梁山泊の仲間として、腹を割って話そうというのだ。これに黒田清隆(薩摩)も加わった。大隈は政治的配慮もあってか、この席ではっきり自説を述べなかった。

ところが帰京した大隈が提出した意見書は、早期の国会開設を求める急進的なものだった。後年になって、これは大隈のブレーンで慶應義塾出身の矢野文雄が書いたものだと分かるが、大隈が出した以上、彼も同意見だったはずだ。

提出の際に、くれぐれも内密にと念を押しておいたが、この種のことが洩れないはずがない。案の定、伝え聞いた伊藤は、なぜ熱海で黙っていたのかと激怒した。この件は大隈が謝罪して収まったが、伊藤の胸中に不信感が残ったのは当然だった。

そこへ北海道開拓使の官有物払下げ問題が起こる。開拓使所有の土地や建物を、薩摩出身の政商五代友厚に廉価で譲ろうというのだ。

実はこれは当時の政府の産業育成策だった。巨額の投資を行う余裕が民間にないため、やむを得ない面もあったが、見方を変えれば巨額の利益供与だ。この場合も開拓使長官黒田清隆と五代が、同じ薩摩出身であることが問題だった。

この件は熱海でも話し合われ、政府内での根回しは済んでいたのだが、それが突然、「東京横浜毎日新聞」にリークされた。他の民権派の新聞も、それを受けて一斉に政府を批判し始めた。

リークした犯人が誰かは分からなかった。だが伊藤は大隈が仕掛けた政争だと信じたし、裏では福沢諭吉が手を引いていると見た。大隈と福沢の連携は伊藤の誤解だったが、先の意見書の件があって、大隈は信用を無くしていた。

伊藤は反撃策を練った。まず、大隈は政府から追放する。その代わり、十年後の国会開設を約束する。政争の芽を摘む一方で民権派にも配慮する、バランスの取れた策といえた。

極秘のうちに、大臣、参議に根回しがなされた。大隈だけが何も知らなかった。明治天皇の東北・北海道巡幸に随行していた大隈は、東京に戻るなり解任された。天皇への拝謁を願い出たが、それすらも許されなかった。これが明治十四年の政変である。

大隈と伊藤の対立の原因は、単なる国家観の違いだけではない。その背景には既得権を守ろうとする主流派の薩長と、維新に遅れたゆえに傍流に甘んじる他藩出身者との確執があった。大隈はこの政治闘争に敗れたのである。

だがこの挫折は、大隈という底抜けに明るく楽天主義の男の闘志まで挫きはしなかった。

政争には敗れたが、大隈を支持する者は官界にも在野にも数多くいたからである。

 大隈は早速、国会開設に備えて、政党結成に取りかかった。これが立憲改進党であり、板垣退助の自由党と並ぶ立憲政治初期の二大政党となる。

一方それと併行して、東京専門学校の創立準備も進めた。後の早稲田大学であり、福沢諭吉の慶應義塾と並び称される私学の雄となる。

政党と学校の設立を同時に進めたのは、偶然ではないだろう。民主主義が機能するためには、有権者が高い教育を受け、自主独立の気概に富んでいなければならないからだ。

学校の場所である早稲田は、かつて大名の別邸が置かれたこともあったが、当時はほとんど一面の田んぼだった。第一期生は八十人。開校式には東大総長の外山正一、慶應義塾塾長福沢諭吉はじめ、内外の学者や政治家が参列した。

とはいえ、船出は決して順調ではなかった。学校の目的を反政府運動のための政党員の養成だと誤解した政府が、陰に陽に妨害を加えたからである。加えて私学の常として、慢性的な資金不足に悩まされた。だが、高田早苗、天野為之ら、大学を卒業したての若く情熱的な講師たちのおかげで、徐々に軌道に乗っていった。

政府を去っても、政党活動と大学経営で大隈は多忙だった。そこに突然、外相として入閣の話がきた。明治十四年の政変からわずか六年である。これには大隈も驚いた。

当時の外交の最重要課題は、幕末に結ばれた不平等条約の改正だった。井上馨が外相として八年尽力したが、結局失敗に終わり、後任に大隈を推したのである。

これはかつての外交責任者の実力を評価したためだが、この機会に立憲改進党を政府側に取り込もうという意図もあった。大隈は熟慮した。安易に入閣すれば、かえって支持を失うおそれがあったからだが、結局、大隈は受けた。仕事師としての血が騒いでいた。

久々に外交の場に復帰した大隈は、意欲的に条約改正交渉に取り組み、領事裁判権(治外法権)の撤廃については、ほぼ合意に漕ぎつけた。だが、そのために認めた交換条件が問題だった。

もともと幕末に条約を結んだ時、列強が領事裁判権を要求したのは、日本のような野蛮国の法律で自国民を裁かれてはどんな不当な判決が下されるか分からない、という理由からだった。

大隈はそこで、大審院(最高裁判所)に外国人判事を任用するという案を提示したのだ。これには政府内からも懸念の声が上がったが、大隈は押し切ろうとした。

ところがこの合意内容がイギリスの新聞にすっぱ抜かれた。それを読んだ日本の各紙も一斉に報じた。世論は沸騰した。これでは不平等に変わりはなく、日本の司法の独立にも関わるではないか。閣内でも意見が割れて、容易に収拾がつかなかった。

大隈の馬車に反対派が爆弾を投げ付ける事件が起こったのは、そんな騒ぎの渦中だった。重傷を負った大隈は右脚を切断し、黒田内閣も総辞職した。