コラム

「遅れて来た革命家 大隈重信   第2話」

若くして藩の貿易担当者に抜擢された大隈重信は、欧米の商人と交渉する中で、西洋文明について理解を深めていった。

一方、倒幕へと動く時代の激流の中で、佐賀藩はひたすら傍観者を決め込んでいた。大隈とその同志たちは何度も藩主に献策したが、容れられなかった。

このことを大隈は、後々まで悔しがった。だが、もし大隈のような開明主義者が幕末の京都で政治活動を行っていたら、早い段階で暗殺されたに違いない。その意味で、閑叟の方針が佐賀藩の人材を温存したともいえる。

そうするうちに、最後の将軍徳川慶喜が大政を朝廷に奉還し、明治新政府が誕生した。鳥羽伏見の戦いで薩長連合軍が幕府軍を破ると、事前の密約に従って土佐藩も参戦。薩長土三藩の連合軍が江戸を目指して進軍を始めた。そして江戸城無血開城。この段階で閑叟は、ついに戊辰戦争への出兵を決断した。

大隈にもようやく出番がまわってきた。だが彼が向かった先は江戸ではなく、長崎だった。薩摩、土佐の代表らと共に、幕府の長崎での政務を引き継ぐためだった。

ここで大隈は、欧米の商人と各藩との間で溜まっていた山のような訴訟を、わずか二ヶ月で片付けた。判決には多くの抗議があったが、大隈はそれを断固としてはねつけた。

これによって、欧米商人たちはかえって大隈を信頼した。いたずらに返事を引き延ばしたり、一度言ったことをコロコロ変えるよりは、はるかに良いからである。

そんな折、成立早々の新政府を揺るがす外交問題が長崎で起こった。事の起こりは、新政府の長崎総督が、極端な保守主義者だったことだ。彼は維新後に表に出てきた隠れキリシタンを、片っ端から捕えて牢に入れた。江戸幕府のキリシタン禁制を、新政府もまだ引き継いでいたから、これ自体は違法ではない。

しかし、欧米各国の外交団は驚き、イギリス公使パークスを先頭に新政府に厳重に抗議を申し入れた。文明国では、信教の自由は守られるべきだというのである。

新政府は困惑した。当時の日本には、この種の交渉を担える人材がいなかった。いや、そもそも、公開の場で堂々と議論の応酬をするという習慣自体がなかったのだ。

そこで白羽の矢が立ったのが大隈だった。新政府は、急遽彼を長崎から呼び戻し、事実上の交渉の首座に据えた。談判の会場は、大阪の東本願寺である。

この時、パークスの背後には列強の公使団がおり、日本側も議定、参与を初め政府の首脳が顔を揃えていた。しかし、主役は大隈とパークスだった。

パークスはアジアでの勤務が長く、特に清国での経験から、東洋人に対しては高圧的に振舞う方が有効だと信じていた。この時も、当然、そういう態度で臨んだ。

それに対して、大隈の議論は堂々としたものだった。今回の措置は日本の国法に従ったものであり、他国の内政干渉に応じるいわれはないと、真っ向から反論した。

パークスは激怒して、文明国にとってキリスト教がいかなる価値を持つのかを論じたが、大隈は「私は聖書を読んでいるし、欧州の歴史も知っている」と切り返した。その上で、キリスト教には長所だけではなく、宗教戦争のような弊害もあるではないか、と指摘した。長崎で宣教師フルベッキの許で学んだことが生きたのだ。

議論は朝の十時から夕刻まで続き、結局、物別れになった。政府はキリシタン釈放の要求は拒んだが、徳川時代のように彼らを死刑にはせず、幾つかの藩に分散して預けることにした。この談判によって、大隈の新政府での評判は一躍高くなった。

この後大隈の許には、困難な外交案件が次々と舞い込んだ。その一つが、代金が未払いになっている旧幕府資産の回収だった。主なものにアメリカに発注した甲鉄艦と、フランスに発注した横須賀造船所があった。

大隈は大阪で調達した二十五万両を持って江戸に向かうが、その金額では到底足りないことが分かった。さらに当時の江戸は、上野に籠る彰義隊のため治安が非常に悪かった。

そこで長州の大村益次郎と話し合い、二十五万両は彰義隊討伐の軍費とすることにした。この上野戦争では、佐賀藩部隊のアームストロング砲が大活躍することになる。

一方、資産回収は宙に浮き、政府に余分なカネはなかった。そこで大隈は一計を案じた。イギリス公使パークスを仲介として、オリエンタルバンクからカネを借りるのである。

以前の談判での応酬があったから、周囲は心配して止めた。しかし、大隈は平然としていた。こういう点が、一種日本人離れした凄みだった。

もっとも、これは大隈の見込み通りで、パークスは大隈を歓迎し、依頼に応じた。もちろん銀行にとって利益になるからだが、大隈を高く評価していたからでもあった。新政府が戊辰戦争で勝利して国際的信用が増したこともあり、資産回収は滞りなく済んだ。

京都に戻って報告を済ませると、すぐに長崎出張を命じられた。これは前年にイギリス人水夫二人が殺害された事件が解決せず、外交問題化していたものだった。

この事件では、当初、土佐藩士が疑われていたが、土佐側は強く否定していた。大隈は現地で土佐藩と共同で捜査を行った。その結果、犯人は福岡藩士で、すでに自害していたことが分かった。福岡藩は賠償金を払い関係者を処罰したので、この問題も決着した。

このように難航していた案件を次々と解決した手腕が認められ、大隈は外国官副知事に昇進した。現在の外務次官だが、実質的な権限はそれ以上だった。

しかし大隈の前途には、さらに困難な案件が待ち構えていた。それは貿易における悪貨の問題だった。幕府と欧米諸国との条約では、洋銀と一分銀との交換比率を、含有する銀の量で決めていた。ところが幕府も明治政府も財政難に悩み、金銀の含有率を落とした粗悪な貨幣を度々発行していた。さらに各藩にも、それぞれ独自の貨幣があった。

このような状況で、粗悪な貨幣を掴んだ欧米商人から抗議の声が絶えなかった。逆に、わざと粗悪な貨幣を易く買い、それを正当なレートで引き取るよう要求する者までいた。

大隈もこれには頭を抱えた。これは外交問題のように見えて、実は日本の財政と貨幣制度の問題だったからである。そこにメスを入れない限り、本質的な解決はなかった。