コラム

「遅れて来た革命家 大隈重信   第1話」

早稲田大学創立者として学内外の尊敬を集める大隈重信が、青年時代に明治維新の志士であったことや、政党政治家として二度首相を務めたことなどは、意外と知られていない。

草創期の明治新政府において、佐賀出身の大隈は、長州の伊藤博文の盟友でありライバルだったが、日本初の内閣総理大臣になった伊藤に比べると、政治的実績で見劣りがする。

新政府を下野した大隈は立憲改進党を結成したが、全国に燎原の火のように広がった自由民権運動の旗手である板垣退助に比べると、やや影が薄かった。

また早稲田と慶応は日本の私学の双璧だが、創立者の知名度でいえば、一万円札の肖像になった慶応の福沢諭吉に軍配が上がるだろう。幕末に洋行して『西洋事情』や『学問のすすめ』などを出版した福沢に比べ、大隈にはこれといった著書がないのが痛い。

英国流の議会政治を理想とした大隈の国家観は、現代から見ても肯けるものだし、何より大隈は政治家としてもテクノクラートとしても、ずば抜けた能力を持っていた。

その大隈がなぜライバルたちの後塵を拝してしまったのかという問いに答えるには、それこそ一冊の本が必要だ。だが肝心なのは、大隈が時に不当に思える運命に、堂々と対処した姿勢だろう。だからこそ、晩年に至るまで国民的人気を失わなかったのである。

大隈の人生に対する姿勢は、明治以後、常に東京に遅れをとってきた大阪人にとって、学ぶべきものがあるのではないか。

ゆえに、「なにわ起業家列伝」第十四話に取り上げることとする。

 

大隈重信は、天保九(一八三八)年佐賀城下に生まれた。幼名は八太郎。佐賀の龍造寺八幡にちなんだ名で、八は末広がりで縁起がいいことから、大隈自身も気に入っていた。

大隈家は代々藩の砲術長を務める家柄だったが、大隈が十三歳の時に父の信保が亡くなった。母の三井子は夫亡き後の家計を支え、二男二女を育て上げた。三井子は後世にまで賢夫人として知られた女性で、大隈の人格にも大きな影響を与えた。

当時の佐賀藩は教育熱心な藩だった。大隈は藩校弘道館に七歳から通い始め、十四歳で寄宿生となった。藩校で規定の成績を修めないと、家禄の半分が没収され、藩の役職にも就けなかった。そのため、いきおい成績至上主義となった。大隈は優等生だったが、これに強く反発した。後年の大隈の反骨精神は、この頃養われたのだろう。

また、大隈はガキ大将でもあった。持ち前の気の強さと腕力があり、ケンカをして負けたことがなかったという。十五、六歳の頃には、大隈家は彼の友人たちの社交場になっていた。母の三井子は苦しい家計ながら、少しもイヤな顔をせず、手作りの団子や牡丹餅を振舞って歓迎した。

勤王運動に目覚めるきっかけになったのは、枝吉神陽の義祭同盟への参加だった。神陽は佐賀藩きっての国学者であり、その実弟の副島種臣、江藤新平、大木喬任ら、後に明治新政府で活躍する面々が参加していた。大隈はこの時十七歳で、一座の最年少だった。

義祭同盟は佐賀藩の藩政改革運動へと発展していく。だがそれに危機感を覚えた保守派が反発し、やがて形骸化していった。

その頃、大隈の若いエネルギーは、狭い藩校の枠の中には収まりきらなくなっていた。大隈は朱子学を中心とした弘道館の保守的な教育方針に、反旗を翻した。それはたちまち、校内を二分する保守派と改革派の争いとなった(南北騒動)。

事態を重く見た藩当局は、双方の主謀者数人ずつに退校を命じた。藩校を規定の成績で修了しないと家禄を減らされる定めだったから、これは極めて重い処分だった。

処分を受けた学生たち慌てた。彼らは父兄に付き添われて懸命に謝罪して、何とか復校を許された。こうして騒動は収まったが、大隈だけは屈しなかった。頑として謝罪を拒み、蘭学寮に転じたのである。

親戚たちは驚いて、母の三井子と大隈を責め立てた。この時、三井子は一言も息子を責めず、その希望を許したという。この母がいなかったら、後の大隈はなかったに違いない。

その頃すでにペリーが浦賀に来航し、日米和親条約が締結されていた。だが大隈は時代の先を見通して、この選択をしたのではなかった。むしろ武士の一分とも言うべき、やむにやまれぬ気持ちだった。しかしそれが結果的に、彼の眼を海外に開かせることになった。

大隈は蘭学に没頭した。数年後には蘭学寮の教官となり、藩主に講義をするまでになった。もっとも大隈のオランダ語は、蘭学者のような緻密なものではなかったらしい。また、教官といっても、毎日講義する義務はなかった。

当時の佐賀藩主は、名君鍋島閑叟(かんそう)だった。彼は藩の洋式化に努め、大砲や蒸気船まで藩内で製造を試みていた。閑叟の意図は、この跳ねっ返りの若者を、長崎で使うことにあったようだ。

大隈は後に「代品方(かわりしなかた)」という、藩の貿易業務の担当者になるが、どうやらこの頃から度々密命を受けて長崎を訪れ、英米の商人と交渉にあたっていたようだ。

また大隈は蘭学寮生三十数人を引き連れて長崎に遊学し、オランダ人宣教師のフルベッキから、英語と西洋事情を学んだ。これは後に大隈が明治新政府に仕えた時に大いに役立つことになる。

こうして充実した日々を過ごしていた大隈だが、その間、中央の情勢は大きく動いていた。大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変によって幕府の権威は揺らぎ、薩摩、長州を中心とした雄藩の時代が始まっていた。

長州藩は幕府の第一次征伐に敗れて滅亡寸前になったが、当初敵対していた薩摩藩と同盟を結んだことで息を吹き返した。水面下では、倒幕の企てが着々と進行していた。

ところが、薩摩、長州と並ぶ雄藩の佐賀藩は動かなかった。それどころか、藩士の志士活動も一切禁じた。人一倍血の気の多い大隈は、歯ぎしりするしかなかった。