山崎工場で仕込んだ原酒を使った、日本初の本格ウイスキー「白札」と「赤札」は、どちらも不評でさっぱり売れなかった。
さらに、意気込んで参入したビール事業でも、思わぬつまづきがあった。他社製の瓶を回収して再利用していた事にクレームが付いたのだ。
寿屋では、赤玉こそ相変わらず利益を叩きだしていたが、ウイスキーは大赤字、ビールも既存大手の厚い壁の前で苦戦していた。しかもそこに、ニューヨークのウォール街での株の大暴落に端を発した世界的な不況が起こり、日本にも波及し始めていた。
寿屋は四面楚歌の状態にあった。山崎工場では、昭和六(一九二九)年のモルト(原酒)は仕込めなかった。長いサントリーのウイスキーの歴史の中でも、モルトがないのはこの年だけだった。
さしもの信治郎も、眠れない日が続いた。事業を整理して、広げすぎた戦線を縮小しなければならないのは分かっていた。だが何を残し、どこを切るべきか。社内では、カネ食い虫のウイスキーの仕込みをやめるべきだ、という声が強かった。
ここで信治郎が下した決断が、寿屋(後のサントリー)の企業アイデンティティを定めた。まず、煙草のヤニ取り用の半練り歯磨き「スモカ」を売却した。宣伝部長片岡の秀逸なコピーもあって人気が出ていたが、躊躇はなかった。
だが、それだけでは楽にならない。次に売却すべきは、ビールか、ウイスキーか。
常識的に考えれば、「白札」「赤札」で失敗し、今後も無限に資金を食いつぶすウイスキーこそ、整理の対象になるべきだった。それに高級品のウイスキーより、庶民の飲むビールの方が、市場として有望なように思えた。
だが信治郎の考えは逆だった。真の価値は、誰にも真似できない事の中に宿っている。山崎蒸留所に眠る原酒の樽こそ、他のどの企業も持ちえない宝の山だった。幾つもの企業が競合するビールの方が、かえって利益を生み出せないとみた。
そこへ、「オラガビール」を買収したい、という申し出があった。既存大手としても、寿屋の果敢なダンピングで混乱した業界を、再編する必要に迫られていたのだ。
信治郎はすでに、ウイスキーを活かすためにビールを切る決断をしていたが、それをおくびにも出さず、強気で価格交渉を続けた。この時、経理担当者が、信治郎の前で土下座して、「このままでは半年ももたない」と訴えた話が残っている。
だが相手方は、信治郎の強気にすっかり騙されてしまった。売却価格は三百万円。買収価格よりもはるかに高値だった。寿屋はこれで息を吹き返した。
そんな折、竹鶴から退社の申し出があった。最初に約束した十年の契約期間は過ぎていた。信治郎の長男吉太郎への教育について依頼されていたが、それもすでに一通りのことを教え終わっていた。
信治郎は慰留した。ブレンドについて意見が食い違う点もあったが、竹鶴は寿屋に欠かせない人材だった。だが、竹鶴の気持ちを翻すことはできなかった。
どちらも天才的ブレンダーだったからこそ、両雄が並び立たなかったともいえる。竹鶴はこの後北海道に渡り、余市で理想のウイスキー作りに取り組んだ。これが大日本果汁、後のニッカの始まりである。
一方、信治郎の事業欲は留まるところを知らなかった。赤玉ポートワインは相変わらず稼ぎ頭だったが、これが混合ぶどう酒に過ぎないことは分かっていた。日本で葡萄を栽培して、せめて原酒は国産ぶどう酒を使いたいと、かねてから考えていた。
その点については、日本にはすでに何人かの先覚者がいた。牛久にワイナリーを作ったハチ印ぶどう酒の神谷伝兵衛もそうだったが、新潟では川上善兵衛が岩の原葡萄園を開き、明治二十年代から試行錯誤を続けていた。信治郎は出資を決め、善兵衛と共同で株式会社岩の原葡萄園を設立した。
もっともこれだけでは寿屋全体の需要を満たすには足りず、山梨県登美村の百五十町歩の大葡萄園も買収した。これは明治時代にドイツ人技師ハインリッヒ・ハムが拓いたものだが、経営難のため持ち主が何度も代わり、荒れ果てていた。
ぶどうの産地である大阪府南河内郡には道明寺工場を建設し、果汁やぶどう酒の生産を始めた。これら以外にも、全国各地に農園と作業場を設けた。
懸案だったウイスキーも貯蔵すること十年にして、ようやく原酒の味わいは深みを増していた。信治郎のブレンドも冴えわたった。
満を持して、十年貯蔵の「サントリーウイスキー特角」さらに十二年貯蔵の「サントリーウイスキー角瓶」を発売した。特に「角瓶」は、その味わいもそうだが、デザインの斬新さが話題になった。現在も変わらぬ、亀甲型紋様の瓶である。
さらに大阪梅田の地下街に、サントリーバーをオープンさせた。これは戦後のトリスバーの先駆けで、正しいウイスキーの飲み方を伝えるアンテナショップだった。
「角瓶」に続く新作「サントリーオールド」は、スコッチをも超える国産ウイスキーの傑作だったが、戦争の影響で本格的に普及するには至らなかった。。
軍部独裁の時代が始まろうとしていた。昭和六(一九三一)年に満州事変勃発。昭和恐慌による生活不安は、政党政治と財閥への不信を煽り、五・一五事件、二・二六事件などの軍部によるテロが起こった。
北京郊外の盧溝橋で起こった軍事衝突は日中間の全面戦争に拡大した。広大な中国大陸にあまたの物資と人命を注ぎ込んだが、戦争終結の兆しは一向に見えなかった。
そんな中で、昭和十三(一九三八)年に国家総動員法が成立、日本は統制経済の時代に入った。国民の生活は苦しくなるばかりで、ウイスキーは庶民には高嶺の花となった。
一方、軍隊に酒は不可欠で、しかも大量に消費した。そのため酒類は軍需品の扱いとなった。陸軍は日本酒だったが、万事洋式の海軍では士官はみなウイスキーだった。
寿屋は事実上海軍のご用達となった。そんな矢先、信治郎を悲劇が襲った。