コラム

「日本に実業界を創った男 渋沢栄一 第4話」

洋式部隊の募集と編成、財政再建などを次々と成功させ、その手腕を認められた渋沢栄一は、徳川慶喜の弟民部公子留学の随員として、欧州へ旅立った。

 横浜からフランスまでおよそ二か月の船旅だった。万国博覧会も無事終わり、民部公子は欧州諸国を遊覧した後、パリで家を借りて落ち着き留学生活を始めた。

一行にとって、栄一はなくてはならない存在になっていた。金銭の管理、生活上必要な事務の手配、さらに随員間のもめ事の調停まで引き受けて、極めて多忙だった。

そんな折現地の新聞に、日本の大政奉還のニュースが載った。遠い異国のことでもあり、パリ滞在中の外国奉行栗本鋤雲(じょううん)でさえ最初は信じなかった。

だが栄一は、慶喜側近として様々な事情に通じていたから、あり得ることだと考えていた。やがて鳥羽伏見での敗戦、慶喜の江戸退去と恭順などの続報が入った。

(我らは異国で亡国の民となったのだ。いったい、これからどうすべきか……)

 随員たちが甲論乙駁している間、栄一はカネの算段をしていた。いまさら帰国するよりも、このまま学業を続けた方が公子のためになるが、問題はその費用だった。

 栄一は普段から節倹に努めていたが、経費削減のために十人ほどいた随員を順次帰国させて半分に減らした。手元のカネも眠らせず、フランスの公債と鉄道債券を購入した。

 こうして数年程度滞在できるメドが立った。さらにフランスとイギリスに居る二十名ほどの留学生も、民部公子の予備金から旅費を支出して帰国させた。

だが折角の算段だったが、民部公子の父が国元で死去したために、一行は帰国を余儀なくされた。およそ二年ぶりの日本だった。

横浜に戻ったのは明治元年十二月はじめのことで、すでに会津も落城して戊辰戦争もヤマを越え、榎本武揚らが籠城する函館を残すのみだった。

 ちなみにともに一橋家に仕官した喜作は、洋式歩兵の指揮官として各地を転戦して敗れ、やはり函館にいた。函館陥落後は、栄一と共に実業界入りをしている。

 

栄一はいったん故郷に戻り、父、妻子と久しぶりに再会して無事を喜びあった。民部公子は水戸藩に仕えるよう栄一を誘ったが、それを断り駿河(静岡県)へ向かった。

 新政府により徳川家は駿河に転封され、旧主慶喜もそこで隠棲していた。栄一は帰国の報告を済ませ、預かっていた留学費用を清算して残金を勘定方に返納した。

 当時の役人には、経費が不足すればどしどし請求し、余れば役得として自分の懐に入れるような人物が多かったから、栄一の措置は大きな信用を生んだ。

 栄一は妻子を呼び寄せ駿河に移住する考えだったが、駿河藩へは仕官しなかった。

彼の脳裏には、フランスで軍人と実業家が対等に会話している情景が焼き付いていた。

(日本でも、武士が威張って商人が卑屈になっていては、経済は発展しない。そのためには、自分が民間の立場から新たな産業を興さなければ)

 栄一はそう決意した。その機会はまもなくやってきた。

新政府は財政窮乏打開のために五千万両の太政官札を発行し、その流通促進のために、石高に応じて諸藩に貸し付けることにした。駿河藩への割当はおよそ五十万両である。

「これを日常の経費に使ってしまっては、後に借金が残るだけです」

 栄一は、商法会所という、銀行と商社を兼ねた団体の設立を勘定方に進言した。五十万両を元手に、農民や商人に資金を貸付ける一方、物産を安く購入して高く売るのである。

 積み重ねた信用がモノを言い、栄一は責任者として運営に当たることになった。全精力を事業に傾け、ようやく軌道に乗り始めた矢先のことだった。

新政府から突然の呼び出しがあり、東京に出頭すると、「大蔵省租税正(そぜいのしょう)に任命す」という辞令を渡された。

栄一は憤然とした。失礼にもほどがある、と思い、すぐに辞職するつもりで、大蔵大輔(たゆう:現在の次官)の大隈重信に面会を申し込んだ。

大隈は薩長に比べて傍流の佐賀藩出身だったが、当時の武士には珍しく財政が分かり、能弁で交渉力があり、ブロークンな英語で外国人とも臆せず渡りあった。

 この大隈に懇々と説得され、栄一は辞職を思いとどまった。

 いざ出仕してみると、新政府こそ誕生したものの、諸制度が全く追いついていない。貨幣制度、租税改正、度量衡の改正、合本法(会社)の組織など、難題が山積していた。

 それなのに、役人たちは目の前の事務に忙殺されて何も進まない。そこで改正係という部署が新設され、優秀な人材を各部署から集め、制度改革の権限がそこに集中された。

栄一はその係長となり、業務の陣頭指揮を執った。国の組織自体がまだ未成熟なこともあり、この時期の大蔵省には様々な権限が集中していた。

 栄一は国全体の新たな制度設計を進めていく中で、大隈の後任の大蔵大輔の井上馨や、井上と同じ長州閥の伊藤博文らと、同志的な関係を築いていく。

 廃藩置県の決定がなされた時も、栄一は書記官という名目で会議の場にいた。一般に廃藩置県は、西郷隆盛の徳望と薩摩の武力を背景に、波乱なく成功したとされている。

 しかし実務上の大問題だったのは、各藩の金穀、租税、藩札、実施中の事業等をいかに引き継ぐか、ということだった。それを担当したのが井上馨と渋沢栄一だった。

 栄一は三昼夜不眠で、数千枚にも及ぶ廃藩の処分案を作成した。特に問題だったのは、藩札の償還と負債の継承である。一歩間違えば、政府が莫大な負債を負いかねない。

 そこで負債のうち古いものは棒引きさせ、残りを新旧二種に分けて、公債証書を発行した。これは豪商たちには大きな痛手だったが、新政府の財政には救いとなった。

 栄一はまた新政府の財政がどんぶり勘定なのを憂い、歳入の統計をしっかりと取った上で、それに応じて各省の予算を定額で分配することを提案した。

ところがそこへ、思わぬ敵が立ちはだかるのである。