コラム

「銅(あかがね)の巨人 住友理兵衛 第2話」

後に住友家の家祖なる住友政友は、涅槃宗の開祖空源の許で出家し、空禅と名乗った。一方政友の姉を娶った蘇我理右衛門は、銀銅吹き分けの新技術の習得に没頭していた。

 この点について少し説明しておきたい。安土桃山時代から江戸時代にかけて、日本は世界有数の産銅量を誇っており、明やオランダとの貿易も銅で決済していた。

 ところで、地中から掘り出された銅鉱石には微量の銀が含有されている。一般に千分の一から五、高いもので千分の十八程度だという。

 当時の日本の技術では、精錬の際にこの銀を抜くことができなかった。それを知っていたオランダや明の商人は、受け取った銅から銀を抽出して儲けていた。いくら微量といっても、取引量が数トン、数十トンになれば、ばかにならない額である。

 これを知った理右衛門は、何とかしてこの新技術を会得したいと思い、日夜研究に没頭したが、どうしても結果が出なかった。

 銀と銅の融点の違いを利用するらしいことは、すでに見当がついていた。

しかし銅(一〇八三度)と銀(九六一度)の融点に大きな違いはなく、含有している銀の量がごく少ないこともあって、いくら試してもうまくいかない。

この難問を解く手がかりを伝授したのは、堺に来航した白水という明人もしくはオランダ人と伝えられている。白水は、ハックスリーであろうか。

その方法は、銅や銀よりはるかに融点の低い鉛(三二八度)を使うのである。まず銅と鉛の合金を作り、この合金を徐々に、銅が完全に溶けない程度に熱していく。

すると鉛が先に溶けて、合金から汗のように染み出てくる。この鉛汁に銀も混じっている。いわば鉛を使って、銅に含まれる微量の銀を引き出すのだ。

こうして銀混じりの鉛ができる。次にこれを灰の上に載せて熱していくと、融点の低い鉛が先に溶けて、灰の下に落ちる。灰の上に残ったのが銀、というわけである。

これが「南蛮吹き」と呼ばれる方法である。理右衛門より先に、博多の豪商神谷宗湛(かみやそうたん)が明人から伝授されたという話もあるが、これを世間に広めたのは理右衛門の功績だった。

 理右衛門は白水をもじって、自らの店に泉屋という屋号を付けた。「南蛮吹き」を修得したことで、理右衛門の泉屋は銅吹き屋として大いに名を博し、巨利を得た。

 豊臣秀頼が再興した京都東山方広寺の大仏と、大阪の役の原因となった「国家安康」の銘のある梵鐘の銅は、彼が命を受けて納入したと伝えられている。

 

 一方政友改め空禅は、いつしか空源門下第一の俊秀と呼ばれるようになっていた。涅槃宗は浄土真宗と同じく妻帯を認めていたので、空禅も妻を娶った。

 すべてが順調に運んでいるように見えた。だが急速に教勢を伸ばした教団にありがちだが、涅槃宗も既成の宗派から嫉妬されていた。反対派はひそかに機会をうかがっていた。

 元和三年(一六一七)、空源に帰依していた後陽成上皇が崩御すると、他宗派は一斉に京都所司代の板倉勝重に対し、涅槃宗は邪教である、と訴え出た。

 板倉は、単純にそれを信じたわけではなかった。だが、かつて全国を席巻した一向一揆の記憶はまだ新しく、徳川幕府は宗教を統制する方向で動いていた。

 皇室と結びついて急速に影響力を強めている新教団は危険だった。板倉は決断した。本山は堂宇を破壊され、空源以下主だった弟子は江戸に護送され、分散して各藩に預けられた。その翌年、空源が預け先の酒井忠世の下屋敷で病没する。

 ここで頃合いをみて調停人として登場したのが、天海僧正である。天海は家康側近として、初期江戸幕府の宗教政策を事実上統括していた人物である。

 天海は自らが所属していた天台宗の傘下に、涅槃宗の寺院を僧侶と信者ぐるみ吸収することで、彼らを救済した。涅槃宗の看板は失われるが、公的な立場と生活は保障される。遺恨のない円満な決着は、幕府の利益にもかなう。巧みな政治判断だった。

 だが空禅は、天台宗の僧侶になることを潔しとしなかった。亡き師に対して筋を通したためだったが、天海に感謝しつつもどこか違和感も覚えていた。

(この件で一番得をしたのは、結局、天海様ではないか……)

 空禅はこの機会に、員外沙弥(いんがいしゃみ:定員外の僧)になった。これは寺院に属さないフリーの僧侶である。名も、嘉休(かきゅう)と改めた。すでに三十代半ばになっていた。

嘉休は京都に帰った。義兄の理右衛門の許には、妻と二人の子どもを預けていた。理右衛門は快く義弟を迎えた。彼はいつしか、この義弟を心から尊敬するようになっていた。

寺院に属さない以上、生活の糧をどこかで得なければならない。嘉休は、京都の仏光寺上柳町に、富士屋という書店兼薬屋を開いた。資金は理右衛門が出した。

 僧侶は当時の知識階級である。漢籍の読解能力も、漢方の医薬関係の知識もあった。富士屋は繁盛した。嘉休に、家族と共に暮らす平穏な日々が訪れた。

理右衛門の長男理兵衛と嘉休の娘お妙との間に縁談が持ち上がったのはこの頃だった。嘉休の配流中、二人は同じ家で暮らしていたため、自然に親しくなっていた。

通常ならば、お妙を蘇我家の嫁に迎えるところだ。ところが理右衛門は、理兵衛を住友家の婿養子にする、と申し出た。これには嘉休も驚いた。

「しかし理右衛門義兄さん、大切なご長男をいただいては申し訳がない」

「いや、住友家は、我が蘇我家の本家筋に当たりますから、これが当然です」

理右衛門は譲らなかった。長男に住友の姓を名乗らせるというのは、彼の嘉休に対する、最大限の尊敬と好意のあらわれだった。こうして理兵衛とお栄は結婚した。

その頃理右衛門には、大きな悩みがあった。泉屋が「南蛮吹き」で繁盛するにつれ、同業者の嫉妬とスパイ活動が激しくなっていたのである。理右衛門は、義弟に相談した。

「義兄さん、ここは泉屋の将来にとって、非常に大切なところです」

 ここで嘉休は、驚くべき助言をした。それを理右衛門が受け容れたことで、将来の泉屋、いや住友家の繁栄が約束されたといっていい。